自分に好都合な宗教を一人で信仰し、面倒ごとの言い訳にする発想です。
例えば「宗教上の理由で、残業できないんですよ」みたいな?
以下は、教義みたいなものの例。
- 子孫を作らない(孫の顔が云々は信仰の侮辱)
- 残業はしない(強要は信仰の自由に反する)
- 他宗教の冠婚葬祭には参加しない
- エクセルのセル結合は禁止
- ヤード・ポンド法は用いない
- 来世に期待しない
- 酢豚にパイナップルは入れない
- から揚げにレモンをかけない
……って書いていくと、宗教が陳腐に思えてくるかもしれないけど、こんなもんでしょ? 何がとは言わないけど。
こういった教義であっても、時が経てば解釈違いで宗派が分かれ、時代にそぐわないとリメイクされ、都合の良い教義だけ信じられるようになる。
すると、最初の教義を至上とする原理主義者は、新たな解釈を異端として攻撃するだろうし、攻撃された側も進歩のない相手だと反撃するでしょう。
異教徒からすれば、同一宗教の宗派対立に見えても、当事者にとっては邪教との対峙だったりする。自分の宗教には派閥はなく、異なる宗派は異端で邪悪なもの。そんな認識。
だから、違う宗教よりも先に異端を潰したいと……。
しかしまぁ、何だろう。
誰かが「神を発明」し、その元祖が消えた後に、別の人が再構築。さらに時が経ち、再構築。この繰り返し。
で、誰もが自分こそが正当だと言い張る。
ルーツをたどれば、シュメール文明辺りまで遡りそうだけど、そこへのリスペクトはない。
* * *
信じるものを救うとしたら、宗教は幼児を助けない。
信仰を理解しない赤子は、天国に行けない。
親がアレするから大丈夫? その時点で信仰の自由がない。
そう考えると、冠婚葬祭の儀式ってのは、血のつながりで信徒を増やす儀式でしかない気がしてくる。
それに金をかけてまぁ……。
知恵の実を食べた割に、賢くないよね。
イラン政府は、バハーイー教徒(Bahais)を背教者と見なし、その信仰を「政治的分派」と定義している。バハーイー教の信者は、布教や教義の実践を禁じられ、その他の宗教団体とは異なる様々な差別を受けている。
ところで、宗教別GDP平均とか出したら、どうなるんだろうね。