メモ書き

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言い争いの現場を見ると、自分の問題として捉えてしまう

言い争いの現場を見ると、当事者として考えてしまう。
なぜか?

自分が問題の当事者なら、どう対処するのかを考えるから?
「相手の気持ち」とやらを考えずには、いられないから?
自分も、まったくの無関係じゃないから?

そんな原因を探ったところで、感覚的に反応してしまうことの理由はわからない。
わかっているのは、不愉快な気分になること。

自分が直接の当事者じゃないのに、言い合いを反芻して嫌な気持ちになる。
何なんだろうね、これは……。

確かなのは、言い争いの当事者にならずに済むなら、それに越したことがないこと。
仮に不注意な人がいたとして、その人に注意を促したところで、ウザい人に見られて終わり。不注意は修正されないだろう。
もしもの修正に期待するとしても、私がやらねばならない理由はない。他者を動かし、矢面に立ってもらうのが楽。

というか、うだうだと考えてしまう私のようなタイプは、そういった役目には不向き。
向いている人に任せた方がいい。
その分、私が苦手としない分野で貢献して返せばいい。

……と思うことにする。

* * *

こうして考えると「知ることが大事」とか「社会全体で考えて」とか「これは他人事じゃない」って発想はクソ。
なぜなら、その手の話題の結論は「何もしない」だからだ。

知っても、できることはない。
考えても、何も変わらない。
他人事じゃないという認識が、自責の念を強めて苦しめるだけ。

具体的な対策に至らない情報など、いくら集めても厄介なだけかもしれない。

「それは私の課題じゃない」

この区切りを持たないと、次々に課題を背負いこんでいくだけ。
押しつぶされるほどの問題を知り、抱え込んで動けなくなったら、動けない自分という課題を世間に提供するだけ。

だから、問題意識は動ける分しか持ってはいけない。