メモ書き

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「遺族とマスコミ ~京アニ事件が投げかけた問い~」の感想

NNNドキュメント「遺族とマスコミ ~京アニ事件が投げかけた問い~」の感想です。

www.ntv.co.jp

実名報道をめぐるドキュメンタリーです。

構成としては……
・実名を公表し、取材対応も受ける判断をした遺族の理由。
・非公表を選択し、代理人を通しての取材のみ受けることを選択した遺族の理由。
・ジャーナリズムを研究し、教える側の視点
佐世保小六女児同級生殺害事件
・番組ディレクターの見解
といったところ。

公表に踏みっ切った遺族は、事件で犠牲になった「36人のうちの誰か」ではなく、個人として名前と顔を知ってほしい。
京アニ」に対する献花ではなく、そこで働いていた個人を知って、献花してほしい……。
そういった感じの理由でした。

非公表を選択した遺族の理由は、気持ちの整理もできない状態だから、そっとしておいてほしい。
「伝わりませんよ」とか、そういうことも言われたけど、伝えたいときに自分で話したいとも。
最後の方では、「自分の生活を壊されたくない」という気持ちも語られていました。

* * *

こういった意見の違いがあるわけですが、「実名報道は使命である」といった理由から、メディアは全員の実名を報道したわけです。
なので、悪い言い方をすれば「あの実名報道を正当化するための番組」という先入観みたいなものが働き、録画したものを見る気になれずにいました。
それを今、なんとなくで見てしまったと……。

で、予想外に「踏み込んでいるな。そして、迷っているな」という印象を受けました。

個人的な評価ポイントは「佐世保小六女児同級生殺害事件」への言及です。

普段、被害者を取材する側の新聞記者が、ある日 唐突に被害者遺族になってしまった。
「小学生による同級生の殺人」という衝撃的な事件として、当時は報道されていたように記憶していますが、一方で「被害者遺族となったメディア」という側面もあります。

娘を殺され、そのことを同業者に訊かれる。
「本当は話せる状態じゃない」と、メディア側の人間が発した瞬間、それはひとつのキッカケになりえたように思います。

佐世保支局には社員が3人くらいしかいなくて、社屋と住居が一体化。
社員の家族の顔も知っている……。
その同僚に、知っている子の事件について訊く。
「ろくでもない仕事」と評した社員は、どんな気持ちだったんでしょうね。

そして、被害者の兄の登場。
事件の日、インタビューに答える父を見て、「どうして、そこにいるのか。当時は納得いかなかった」というコメント。
事件当時、中学生だった少年からすれば、辛いことがあったのに、家族がそばにいない。
それは納得のいく状況ではなかったでしょう。
後になって、自分がインタビューに答えなければ、他の家族のところに行くから、それを避けるためと話したそうです。
嫌な言い方をすれば、マスコミの「手口」を知っているから、警戒できたんですよね……。

「謝るなら、いつでもおいで」という事件の本があるらしいのですが、このタイトルは被害者兄のものだとか。
彼も、ずっと報道と向き合ってきたんでしょうね……。

私は、この事件のことになると、毎日新聞が入っているパレスサイドビルの地下にある食堂にあった「御手洗君の葬儀の件で」みたいな張り紙を思い出します。
会社で葬儀をやることを検討したけど、本人の希望でやめました的な……。
何かこう、いろいろと考えてしまうんですよね。あの張り紙に。

※ 食堂の名は、たぶん「まいにち食堂」です。いわゆる社食。専用のカードで食券を買うタイプだったはず。同じビルには、アラスカという高いカレー屋もあったんですよ。1回しか行ってないけど。

* * *

続いて、ジャーナリズムを教える側の視点。

授業では、具体例を用いてディスカッションしているようでした。

記者「取材した内容は掲載されるかもしれないし、されないかもしれません」
取材対象「掲載されなかったら、取材した時間が無駄になる。協力したんだから、ギャラをよこせ」

といったシチュエーションで、ギャラを出すべきか訊くと、最初は半数以上が「出すべき」だったそうです。
ところが……どうだったかな?

ギャラを出すようになれば、ギャラを目当てに取材を受ける人が出てくる。
最悪、知らないことを知っているといえば、取材対象になって収入に繋がるから、嘘をつく人も出てくるでしょう。

報道の観点から見れば、そこに問題はないかという論調だった気がします。

これを受け、ギャラを出すべきではないという結論が増えるとか。

ところが、以下のようなシチュエーションでは、意見は変わりづらい。
幼い子が事故で亡くなった家に取材に行くと、両親から実名報道と顔写真の公表はやめてと言われ、絶対にしないと約束して会社に戻る。
すると、上司に「ダメだ。公表するのが使命」みたいに言われると……。

この件に関しては、ディスカッションしても、公表に反対する学生が多かったそうです。

この一件を踏まえ、番組ディレクターは取材対象者から逆に問われていました。
「あなたなら、どうするか?」と。

ディレクターは「迷っている」と言っていました。
この事件にかかわる前は公表派だったけど、考え方が変わっていったと……。

そういえば、京アニの遺族に「遺族の方と、メディアの差」を訊いたら、同じ質問を投げ返されていました。
アレコレ答えていましたが、答えに迷っているせいか、何も答えていないような……。
そんな回答になっていた気がします。

逆に、そのあとに遺族の方が語られた内容の方が、理路整然として入ってきやすかったです。


* * *

番組に対する感想は、こんなところ。
後はオマケです。

取材協力者への報酬によって、その情報の質が歪むというなら、ジャーナリズムとして見過ごせない課題があります。

メディア側が、興行主になることです。

「主催:XX新聞」

テレビ中継される野球の試合で、バックネットに書かれていることもあるでしょう。
この主催者側になるという行為は、報道機関としての中立性の放棄でもあります。
自分らが金を出し、成功を願っている興行。
それを悪く言おうものなら、自分で自分の首をしめるようなもの。
興行主としては、「このイベントは素晴らしい」と“報道(宣伝)”し、さらなる成功へと持っていきたいでしょう。

海外だと、公平性を保つためにイベントのスポンサーにならないと、聞いた気がします。
クロスオーナーシップの件を含め、この辺をスルーして「ジャーナリズムの使命」を語るので、「報道しない自由」とか揶揄されるのかも。

しかし、「使命」ってなんでしょうね。
誰から任命されたんだか……。
権力の監視と言いつつ、世論を動かす権力となったメディアには、その使命を果たすべき立場にあるのでしょうか……。

個人メディアこそが、実は最良の担い手なのかも?

* * *

かつては、多くの人に情報を届けられるのはメディアだけでした。

しかし、今はネットを通して誰もが発信者になれる。
テレビ局じゃなくても、世界中に映像を流せる。
新聞社じゃなくても、世界中に文章を発信できる。

「語りたいと思える日が来たら、語る」

それが以前より容易になりました。
誰かに不本意な編集をされることもなく、自分の意見を届けられる……。

有名人の生の声は、当人のSNSで。

災害の当事者は、自らが撮った映像で、状況を語る……。

テレビに出る暇がない専門家は、空き時間に その専門性をもって話題のテーマに言及……。

そうなれば、何かの専門家でもなく、当事者でもないし、有名人でもないメディアの存在意義は、彼らの言動を集めてダイジェスト化する……。
そう、まとめサイトと同じ存在意義になるかも。


ということを考えたというメモです。

* * *

【追記】

「似たような事件の防止」という側面をもった報道について、遺族側で言及なされた人もいました。

人に危害を加えるためにサラダ油をもって電車に乗る人も出た例にもれず、模倣犯のリスクの方が防止効果より高い気がします。感覚的には。

あと、テレビに出たことで街で知らない人に声を掛けられるケース……。
佐世保の被害者の兄が語っていましたが、事件の当事者として知られるリスクって、こういうのもあるんですよね。
嫌でしょう? 日常で何度も「事件」を掘り起こされるのは。
自分が望まないタイミングで、意図しない相手から……。

一生、無名の一個人でいたい私としては、報道は脅威。