当事者でもないのに、問題点に声が届かない場所で、ギャーギャー騒ぐ意味はあるのか。
問題の背景もろくに知らないまま、最低限の教養もないまま、オールジャンルに口出すのは厚かましくないか。
「俺は、こう思いました!」みたいなノリで、自分の感想こそが正しいと言葉で殴り合う。
終着点も目的も見えない会話に、なぜ人は時間を費やすのか。
それとも、それこそが野次馬根性だと言えばいいのか……。
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野次馬/やじうま
意味
野次馬とは、物見高く集まる人。自分とは無関係なことを面白半分に騒ぎたてる人。野次馬の語源・由来
野次馬の「野次」は当て字で、老いた馬を意味する「親父馬(おやじうま)」の「お」が省略された言葉といわれる。
老いた馬は仕事に使えず、暴れ馬も仕事に使えないため、「やじ馬」は暴れ馬も指すようになった。
さらに、何も役に立たないという意味が転じ、自分とは関係ないところで無責任に騒ぐ人をさすようになり、物見高く集まる人もさすようになった。
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そう叫びながら、同じことをネットで個人が繰り広げている。
芸能人の不倫を糾弾するノリで、他の問題も切ってかかろうとする。
浅い知識なのに「すべてを知った気分」になって。
自分が嫌いな報道は偏向報道だと言い、好きなものは真実だと語る。
そこにあるのは、好き嫌いでしかない。
情報の裏付けを求める素養もなく、都合の良い何かを中毒的に求めている。
「芸能人の持論」とかいう誰得な情報が流れると、都合が良ければ「あの人が、こう言っていた」と、確かさの証明のように用いる。
テレビに出ているだけの人の判断が、正否の根拠。その理解力の無さと、他者依存の判断基準は……以下略。
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もしかしたら、私が映画の感想を書くように、見知った情報について「何か言わないと落ち着かない」だけかもしれない。
自分の中で整理する、あるいは誰かと意見が同じことを確認したい。
でもって、拗らせた人の中には、他者には言えない意見を言うことによって、自己肯定感が増す人がいるのかもしれない。
だけど、得てして そういう拗らせた人の意見は、もっとも安易な解決策でしかない。
その選択による最悪のケースは想定していない。
いや、何も考えていない。
何か問題が起これば、何でも規制で解決しようとする感じに……。
そのうち、火事が起こるから、火を使うのをやめようと言い出すかもしれない。
失うデメリットを考えずに。
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日々のメモに、自戒を込めて。