メモ書き

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原始脳世代

誰が言い始めたのか、「ゆとり世代」なんて単語で年齢層を区切ることがあります。
ゆとり教育を受けた学力的にアレな世代みたいな言い回しが多いですが、そもそも受けた側が望んでそうなったのではなく、むしろ問題があるというのなら実施した世代だという指摘も見られます。

世の中には人を区分けし、新たな名称を付けるのが好きな人がいるようで、「さとり世代」なんて言葉もあります。古くは「団塊の世代」「焼け跡世代」「全共闘世代」でしょうか。

そんな名称を付けて、何になると言うのか……。
言葉を知って、何かをわかったつもりになる自己満足か。
それとも、人を区分けすることで差別でも誘発したいのか。
そう、観念のないところに差別は起きないから。

 

じゃあ、その「原始脳世代」ってタイトルは何よ。
……となるので、その話。

 

小学校でプログラミング教育が必修化というニュースを受け、子供の頃にチャレンジしたかったけど、言い出せなかった自分としては羨ましい気持ちを抱いてしまいました。

「早すぎる」「必要性が分からない」という意見もありますが、使わずに生きてきた人なら、どう使われているのか認識することが無かったのなら、その必要性なんて微塵も感じないことでしょう。

私は、HTMLやCSSには触れていましたが、JavaPHPに触れたのは結構な歳になってからでした。
それも、趣味でアプリを作ってみようとか、そんなレベルの話です。
PHPはサイトを修正する際に、思い出しながら簡単なものを書くくらいです。
データベースを使わないページの処理はjavascriptを使いますが、その書き方にしてもセンスが無いと自分で思っています。

例えば、0が入らない3桁の数字を「Math.random」を使って作るとします。
この際、同じ数字は使わないようにする処理を考えた場合、桁ごとに配列で入れて、前にもある数字だったら、もう一度「Math.random」を実行するようなものを考えてしまいます。
他の人のやり方を見たら、まず配列に1から9の数字を入れ、その配列の中からランダムに数値を抜き出し、抜き出した数字を配列から消すという処理をしていました。

こういうのを見たときに、発想力の違いのようなものを感じるのですが、それは経験を積めば自分にも身につくのか。
それとも、早いうちから馴染んだもの勝ちなのか。
そういうのとは違う次元の話なのか。
みたいなことを考えてしまい、人のプログラムを写経していても、あの発想に辿り着けるのだろうかと思ってしまいます。

だから、早いうちに……と思うところも少しあります。
実施する側は、単純に使える人を増やしたいだけなんでしょうけど。
だったら、それに携わる人の環境改善、取り巻く人の意識改革が先じゃないかとも思いますが。
だって、仮に教育が功を奏したとしても、海外の方が稼げると知ったら、「日本、教育乙。さぁ、高額報酬をやるから我が国へおいで」になるわけですから。

全体的に、技術を軽視して、精神的なものや経験を重視する傾向があるように思えます。日本企業は。
何十年と同じ仕事をしても、そこに日々の工夫や改善、向上があったのかどうかで、その何十年も違うのですが……。

何というか、向上していない人ほど、「結局、最後は人間力」みたいな抽象的な考え方が好きで、自分が持ち合わせていないスキルを否定しがち。
だから、この現状があるようにも思えます。

自分が持ち合わせていないのは、不要なもの。
自分は何も間違っていないし、劣ってもいない。
そう思った方が、楽に生きれるのかもしれません。

このような思考を持っているのだとしたら、自分にはないスキルを子供の頃から身に着けさせるというのは、受け入れがたいところが心情的にあるのかもしれません。

本来、後の世代の方が優秀になるのは、人類の進歩的な意味で、喜ばしいことだと思いますが……。

プログラムはロジックですから、よりロジカルな人材が育成され、社会に出た際には感情論の旧世代との衝突は必至。

ゆとり世代」や「さとり世代」では相手を下に見て悦に浸っていましたが、今度はそうはいかないので「感情が無い」みたいな言い方をすることでしょう。
感情より論理を優先する「ロボット世代」なんて、三流紙が好きそうな単語ではないでしょうか。

それに対し、今度は新しい世代がレッテルを張りなおす。
旧世代は「原始脳世代」だと。
言われっぱなしも何なので、世代名を付けられた側も、反撃に出るんじゃないか。
そう仮定して書いています。

まぁ、感情優先ということなら「動物脳」の方が近いですが、それは自分たちの世代と旧世代の間を指す言葉として取っておきます。

例えば、次の三人がいるとします。
「とある事象をまったく理解できていない人物:A」
「とある事象をある程度は理解している人物:B」
「とある事象を完全に理解している人物:C」

とある事象をAに説明する場合、完全に理解しているCが適任と思うかもしれませんが、CはAが何を理解できていないのかわからず、「わかるように説明する」のが困難な場合もあります。
このとき、Bが間に入ってくれれば、Aがわかっていなさそうなことを理解し、そこの補足をCに求めることができます。
このBの為に、「動物脳」を取っておくのです。

世代間の差があっても、うまく互いの役割を認識できたらいいですね。

ガンプラを3Dプリンタで

3Dプリンタが出てきたとき、プラモ用の3Dデータを買う時代が来るかもと少し思いました。
普段、プラモを作らないのに……。
普段どころの話じゃないですね。最後に作ったのは中学生くらいなんで。

今、「ガンプラ 3Dプリンタ」で検索すると、パーツの一部を作った人の動画なんかが出てきます。
プラモ用のデータがダウンロードされるサイトを調べたところ、ホンダがウェブプラモというサイトを展開していました。
他にもNASA絡みのデータがダウンロードできるところ、化石や地形なんかもあります。
それから、女性のフィギュアや怪獣も。

個人的に欲しいのは、破損した家具のパーツ・データでしょうか。
そのうち、足りない部品を簡単に作れるみたいになってくれると、いいなぁ~と思っています。

まぁ、我が家には3Dプリンタが無いんですけどね。

絶滅危惧種を守る理由が、わからない

オオカミがいなくなったから、シカが増えて困っているでしょ?
こういった命の繋がり、生物多様性が大事だって思わないの?

と、言われそうなタイトルですが、納得できない点もあるという話。
たぶん、経済的な損失みたいなものを数字にでも出されれば、「あぁ、デカいな」みたいに思えるのかもしれませんが、概念だけではピンとこないのかも。
まぁ、その損失の話にしても、計算の仕方で幾らにでもなるでしょう。

この世から、ひとつの生物の遺伝子情報が失われる。
それは、もしかしたら新たな発明に関わる要素を持っているかもしれない。
実は、絶滅したAという生物が作り出す特殊な粘液は……みたいな流れだったら、「守ろう、地球」的なアバウトな主張より耳に入りやすい。

にしても、絶滅によって存在しなくなる『影響』を恐れすぎではないのか。
守るのにだって、それなりのコストがかかっている。言い換えれば、犠牲がある。
何かを守る一方で、その資金で守れたものを、守らなかった一面もある。
そう考えると、人間の選択は重い。

個人的には、絶滅危惧種の話になると、現代版「ノアの方舟」計画でもやればと思ってしまう。
いなくなりそうな種を集め、保存に努める機関を設立する。
本来の生態とはかけ離れるが、遺伝子情報だけは守られるかもしれない。
種の保存が人類の命題であるなら、その機関は攻撃されない場所となる。
それだけで、存在意義はあるかもしれない。

ワシントン条約は よく知らないので、変なことを書いているかもだけど。

マスコミのマスコミ

報道の自由には報道しない自由もセットなようで、他所の不祥事はデカデカと書くのに、自社のお詫びや訂正記事は極めて小さい。
取材という割には、下調べをしたとは思えないような文章を書いている。
載せてやるから感謝しろ、掲載されれば良い宣伝になると言い、協力して当たり前という態度で来る。
基本、取材対象の都合や心境は、報道の自由よりも価値がない。

そんな話を聞くにつけ、「マスコミのマスコミって、どうだろう」と何度か思いました。
変な言葉になっていますが、報道機関の動きを報道するのが専門のメディアを意味します。
「あの新聞社は、こんなことを書いていた。書いていたのはコイツ」から始まり、「あんな記事を書いていたのに、普段は こんなことをしている」というゴシップまで取り扱います。

著名人の遺族に失礼なことを言った人が、同じような目に遭ったら失礼な質問をぶつけに行く。
誤報があったら盛大に騒ぎ立て、社説で的外れな持論を展開する。
取材時の様子を記事にし、問題があれば徹底的に叩く。

記者の身内が問題を起こしたら、その内容にリンクする過去記事をピックアップする。
殺人事件が起こったら、犯人が購読している新聞、よく見ているテレビ局を公表し、犯罪との関連性を強調する。

そして、年末に今年のクソ記事グランプリを決める。


個人でも情報を発信できるようになった今、マスコミ警察みたいな存在があってもと少し思いました。
報道する側を報道する者がいた方が、その姿勢を問える気がしないでしょうか。

年配者を敬えない理由

相手を尊んで礼をつくす。尊敬する。
それが敬うことだと辞書にあります。

「お年寄りは大事に」みたいな教育のもと、育てられれば儒教思想とはいかないまでも、そんな考え方が染みついてしまうというもの。

先人がいるから、今の自分がある。
何かを始めるにあたり、先人がいるのは心強いと感じることもあるでしょう。
その点からいえば、敬う対象としての存在価値みたいなものに納得できます。

中には、そういった納得できるかどうかは問題ではなく、「そういうものだから」「それが当然だから」と教えられ、信じ続けることが正義であり、異を唱える者は罰すべしくらいの勢いを持っている人もいたりします。

一方で、キレる老人や身勝手な年配を見るにつけ、「あんな奴らは、尊敬に値しない」と唾棄する人もいます。
世代間格差のアレコレで、不満がたまっている人もいるでしょう。

この手の話を書いていると、「お客様は神様」という言葉が脳裏をよぎります。
三波春夫さんが言ったときとは違ったニュアンスで用いられているアレです。

何というか、接客する側が相手を尊ぶという意味ならアリですが、客側がドヤ顔で要求するのは違う気がします。
それと似たような匂いが、「お年寄りは大事に」にもあるように思える。

こっちから敬う分にはアリだが、要求されると「はぁ?」みたいな気持ちになる。
みんな、自分の行動や選択は、自分の意思で決めたいのです。
「勉強しなさい」と言われると、するつもりだったのに「嫌だ」と言ってしまう。
そう、これが心理的リアクタンス
そして、年配者を敬えない理由のひとつ……かも。

次に、時代背景です。
ここ百年間と、千年前の百年間では、人々の暮らしは大きく違います。
便利になった、豊かになった、いろんな物が発明された、覚えることが増えて厄介だ、環境が云々……。
そういうこともありますが、親と子の生き方に差ができたのが大きいと、私は考えます。

昔なら、先祖が開墾した土地を守り、親も子も同じように耕していたかもしれません。
同じ作業をするのであれば、経験や知識が豊富な年長者は、生き字引と言えたでしょう。参考になるような書籍等の情報源も不足していたでしょうし、そもそも読み書きできなかった可能性もあります。

今は、どうでしょう?
親と同じ仕事をする人は多いでしょうか?
同じ職業に就いても、やっている作業に違いはないでしょうか?

かつて良しとされた手法が、今では時代遅れになっている。
大昔のように、年配者が身に着けたノウハウが、今も役に立つとは言い難い。
老人が生きた80年と、20歳の人がこれから生きる60年は、ライフスタイルが異世界に転移したくらいに違うのではないか。
そう考えると、変化の早さと長寿化が、世代間の溝を深めている気がしてきます。
役に立つ知識を持っているから、自然に敬われるという点が、前よりも薄まっているという意味で。
もちろん、それは個人差が大きいでしょう。
でも、傾向として「その人の凄さを感じ、自然に敬う」というシチュエーションが、前よりも少なくなったのが、年配者を敬えない理由に繋がっているのではないでしょうか。

まぁ、役に立つかどうか以前に、負の遺産を遺している場合は、厄介がられても仕方ないのかも……。
その最たる物は、何百年と消えないゴミでしょうか。
なので、自分たちは負の遺産を遺さないよう、気を付けないといけませんね。

最後に、根本的な理由について言及します。
「まったく、最近の若者は、何で年長者を敬えないのか」と言われたら、それは「あなたが若者を敬っていないからだ」と答えます。

「欲しければ、まず与えよ」ではありませんが、何も受け取っていないのに反すのは難しい。
敵意を向けられたら、敵意で返します。
「最近の若者は」と嘲笑されたら、尊敬の念も消え失せるというもの。

どんな相手であれ、自分にはない知識を持ち、参考になる何かを持っているものです。
だから、人は人に敬意を払う。その基本が欠如した状態で、一方的な敬意を要求しても、心の醜さだけが相手に伝わるのではないでしょうか。
ガリバー旅行記に出てくる不死人間みたいに。
それが、年配者を敬えない理由のひとつ……かも。

といった感じに、年配者を敬えない理由を考えてみました。

つまらない物語の共通点

ふと、録画した番組を見ていて思ったことがあります。
『見れば楽しめると思うけど、なぜか視聴をためらう作品』があるということ。
見てはいけない類だから ためらうのではなく、「さぁ、見るぞ」という気構えが必要になっているという話です。
重い腰を上げて何たらといった感じでしょうか。

好きで見ているはずの娯楽なんだから、そこまでして見なくてもいいのですが、何となく見続けている……。
たぶん、録画が失敗していたら、あっさり視聴をやめることでしょう。
でも、つまらないわけではない。
前回、感動して涙を流した作品であっても、この気構えが必要なものもあります。
一方で、見る余裕ができれば即行で再生するのもあるんです。
この違いは何なのか、少し考えてみました。
なお、あくまでも個人的な見解ですので、「みんなも、そうでしょ」とは思っていません。
「私の場合は、こうだ」というだけ。

まず、自分の好みを知るために、視聴しないことを決めるポイントから。
・テーマが嫌い……作品の傾向が合わない。
・ステレオタイプな人物の登場……勧善懲悪でシンプルさがウリのような作品なら話は別ですが、凝った内容なのに人物が典型的だと「人の理解が浅い」=「作品にも深みがない」という気がしてきて、急に興ざめすることも。
・演技が苦痛……見るに堪えない演技を見せられると、作品に集中できない。
・説明不足か説明過剰……登場人物が置かれている状況が充分に伝えられないままでは、何を見せられているのかわからないので、物語の展開にも興味が持てない。説明が多すぎても、情報量の多さが苦痛となる。登場人物Aは何を考えて、どう動くのかというのを一から十まで説明されると、想像する楽しみがなくなって「つまらない」となるケースも。「この先、どうなるんだろう」と思わせるには、「どうする」という予測が立てられるだけの情報と、「この先」に対する不確定要素が必要になる。

次に、見る余裕ができれば即行で再生する作品のポイント。
・良い意味で次が予想できない……予想できないから知りたい。予想する方向のベクトルは決まっていて、違うベクトルでの予想外は不快になる。
・危機的状況の演出……次が気になる展開としてシンプルなものに、登場人物が危機に陥ってしまうというものがあります。危機的状況下での選択には人間性が出ますし、物語が「どっちに転ぶのか」という興味も持てる。もちろん、どれだけ危機なのかを効果的に演出するのが前提。
・決断の要求……危機までいかなくても、何らかの変化を促される状況に追い込まれる場合も、上記と同じようなことがいえる。
・環境の変化……特定人物の変化ではなく、取り巻く環境の変化も、上記と似たような意味での「先が気になる」になることも。

最後に、『見れば楽しめると思うけど、なぜか視聴をためらう作品』のポイント。
・視聴しないポイントが含まれない……テーマが嫌いではなく、人物も典型的ではなく、苦痛な演技もなく、説明も適切。少しかすめていてもOK。
・即行で再生する作品のポイントが含まれない……次の展開が予想できる、展開に山がない、大きな変化の予定なし。少しかすめていてもOK。

平たく言えば、「次が気になる」という要素が足りないと、私は積極的に見ようとしないようです。
突き詰めれば、「関係性の変化」を求めているのかもしれません

「AとBの関係性が変わりそう。次は、どうなるのか」
「Aを取り巻く環境が変わることで、立ち位置が変わりそう。周囲との関係性も変わるかも」
「Aが何を選ぶかで、今後の展開が変わりそう。Bとの関係性が悪化するかも、でもCに対して優位に立てるかも」

それを受けて、「Aが、こう変化したから、Bはこう動いた」という風に物語は紡がれていく。

であれば、「関係性の変化」の連続こそが、私が楽しめる物語であり、「関係性の変化」が足りない物語は、私にとって「つまらない」ものかもしれません。

まるで、人生のようですね。
同じ毎日の繰り返しは退屈だから、刺激という「関係性の変化」を求める。
新しい集団に属する、違う場所に行く、新しい物を所有する……。
新しい集団では周囲との関係性を一から構築することになるので、ある意味 関係性の変化だらけ。
違う場所に行くというのは、取り巻く環境の違いから、周囲との関係性に変化が生じる。
新しい物を所有すれば、それを持つことで得られる長所&短所が、生活の変化を生じさせて関係性にも影響する。

ただ、人生には「関係性の変化」を伴わない刺激を求めるケースも多々あります。
何らかの快感をもたらすものを享受し続けるのは、その快感故にとしか言いようがありません。
それと同じように、「関係性の変化」なんて微塵も感じさせないような作品も、たまに見たくなることがあります。
それは、「その状況」が好ましいものであり、変化のなさが心地よく感じられるからでしょう。
「関係性の変化」に満ち足りているのであれば、求めるのは「不変の関係性」となる。
情報過多で疲れているときは、新たな情報を得なくても楽しめるものがいい。
それと似たようなことでしょうか。

同じ作品を見ても、気分や年齢によって、感想も違ってきたりします。
人生経験を積んで見方が変わる以上に、そのときの日々の変化量によるのかもしれない。
なんてことを思いました。

コーヒーで便通がよくなる人、下痢する人

コーヒーメーカーを買ってからというもの、毎朝のようにコーヒーを飲むのが習慣になりました。
一緒にコーヒーミルも購入したので、焙煎された豆を挽いた時に漂う独特の香りも、日々の楽しみになっています。
粉にした状態では、あの良さは味わえないでしょう。

 

でも、いろいろと事情があって飲まない日というのもあります。
そんな日は決まって便通がよくなく、お腹の中がスッキリしない感じがしていたので、「コーヒーって、便通と何か関係があるの?」と思って調べてみました。

 

結果、「便通が良くなる」と言っている人と「下痢になる」と言っている人がいました。

後者は、飲み過ぎが原因の場合もありますが、カフェインが交感神経を刺激し、胃腸の活動を妨げるから。クロロゲン酸が胃酸の分泌を促進するから。タンニンが腸の粘膜に刺激を与えているから。単純にアレルギーだから。
とまぁ、いろんなことが言われています。

前者は、カフェインが消化を促進するから。オリゴ糖が腸内に生息する善玉菌の餌になり、腸内の働きを活性化させるから。
といったことが書いてありました。

 

でも、最終的には「体質による」みたいな便利な締めが待っています。
この体質、実は遺伝子検査でハッキリします。
ジーンライフというところの検査では、「カフェイン代謝の速さ」という項目があるので、そこで“ある程度”わかります。
たぶん、結果を見ても「だから、何?」くらいな気がします。

 

ちなみに、一般的な人の場合で、体内のカフェイン濃度が半分になるまでに掛かる時間は5時間程度と言われています。
であれば、10時間以内に「もう一杯」だと、飲みすぎと言えるのかもしれません。
あと、よくタバコとコーヒーがセットになっている人がいますが、タバコを吸う人や毎日3杯以上のコーヒーを飲む人は、カフェイン代謝酵素が強く機能しているので、カフェインが効きにくい体質になっています。
カフェインの効果を求めているのなら、タバコを吸わない方が良いかもしれませんね。
なお、ジーンライフの遺伝子検査には「カフェインによる不安の感じやすさ」という指標もあります。

※ 検査項目は商品によって違います。