メモ書き

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つまらない物語の共通点

ふと、録画した番組を見ていて思ったことがあります。
『見れば楽しめると思うけど、なぜか視聴をためらう作品』があるということ。
見てはいけない類だから ためらうのではなく、「さぁ、見るぞ」という気構えが必要になっているという話です。
重い腰を上げて何たらといった感じでしょうか。

好きで見ているはずの娯楽なんだから、そこまでして見なくてもいいのですが、何となく見続けている……。
たぶん、録画が失敗していたら、あっさり視聴をやめることでしょう。
でも、つまらないわけではない。
前回、感動して涙を流した作品であっても、この気構えが必要なものもあります。
一方で、見る余裕ができれば即行で再生するのもあるんです。
この違いは何なのか、少し考えてみました。
なお、あくまでも個人的な見解ですので、「みんなも、そうでしょ」とは思っていません。
「私の場合は、こうだ」というだけ。

まず、自分の好みを知るために、視聴しないことを決めるポイントから。
・テーマが嫌い……作品の傾向が合わない。
・ステレオタイプな人物の登場……勧善懲悪でシンプルさがウリのような作品なら話は別ですが、凝った内容なのに人物が典型的だと「人の理解が浅い」=「作品にも深みがない」という気がしてきて、急に興ざめすることも。
・演技が苦痛……見るに堪えない演技を見せられると、作品に集中できない。
・説明不足か説明過剰……登場人物が置かれている状況が充分に伝えられないままでは、何を見せられているのかわからないので、物語の展開にも興味が持てない。説明が多すぎても、情報量の多さが苦痛となる。登場人物Aは何を考えて、どう動くのかというのを一から十まで説明されると、想像する楽しみがなくなって「つまらない」となるケースも。「この先、どうなるんだろう」と思わせるには、「どうする」という予測が立てられるだけの情報と、「この先」に対する不確定要素が必要になる。

次に、見る余裕ができれば即行で再生する作品のポイント。
・良い意味で次が予想できない……予想できないから知りたい。予想する方向のベクトルは決まっていて、違うベクトルでの予想外は不快になる。
・危機的状況の演出……次が気になる展開としてシンプルなものに、登場人物が危機に陥ってしまうというものがあります。危機的状況下での選択には人間性が出ますし、物語が「どっちに転ぶのか」という興味も持てる。もちろん、どれだけ危機なのかを効果的に演出するのが前提。
・決断の要求……危機までいかなくても、何らかの変化を促される状況に追い込まれる場合も、上記と同じようなことがいえる。
・環境の変化……特定人物の変化ではなく、取り巻く環境の変化も、上記と似たような意味での「先が気になる」になることも。

最後に、『見れば楽しめると思うけど、なぜか視聴をためらう作品』のポイント。
・視聴しないポイントが含まれない……テーマが嫌いではなく、人物も典型的ではなく、苦痛な演技もなく、説明も適切。少しかすめていてもOK。
・即行で再生する作品のポイントが含まれない……次の展開が予想できる、展開に山がない、大きな変化の予定なし。少しかすめていてもOK。

平たく言えば、「次が気になる」という要素が足りないと、私は積極的に見ようとしないようです。
突き詰めれば、「関係性の変化」を求めているのかもしれません

「AとBの関係性が変わりそう。次は、どうなるのか」
「Aを取り巻く環境が変わることで、立ち位置が変わりそう。周囲との関係性も変わるかも」
「Aが何を選ぶかで、今後の展開が変わりそう。Bとの関係性が悪化するかも、でもCに対して優位に立てるかも」

それを受けて、「Aが、こう変化したから、Bはこう動いた」という風に物語は紡がれていく。

であれば、「関係性の変化」の連続こそが、私が楽しめる物語であり、「関係性の変化」が足りない物語は、私にとって「つまらない」ものかもしれません。

まるで、人生のようですね。
同じ毎日の繰り返しは退屈だから、刺激という「関係性の変化」を求める。
新しい集団に属する、違う場所に行く、新しい物を所有する……。
新しい集団では周囲との関係性を一から構築することになるので、ある意味 関係性の変化だらけ。
違う場所に行くというのは、取り巻く環境の違いから、周囲との関係性に変化が生じる。
新しい物を所有すれば、それを持つことで得られる長所&短所が、生活の変化を生じさせて関係性にも影響する。

ただ、人生には「関係性の変化」を伴わない刺激を求めるケースも多々あります。
何らかの快感をもたらすものを享受し続けるのは、その快感故にとしか言いようがありません。
それと同じように、「関係性の変化」なんて微塵も感じさせないような作品も、たまに見たくなることがあります。
それは、「その状況」が好ましいものであり、変化のなさが心地よく感じられるからでしょう。
「関係性の変化」に満ち足りているのであれば、求めるのは「不変の関係性」となる。
情報過多で疲れているときは、新たな情報を得なくても楽しめるものがいい。
それと似たようなことでしょうか。

同じ作品を見ても、気分や年齢によって、感想も違ってきたりします。
人生経験を積んで見方が変わる以上に、そのときの日々の変化量によるのかもしれない。
なんてことを思いました。