メモ書き

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まだブログなんて書いてるの? ダセーって言われる日

物事には、いつか終わりが来るもの。

そんな視点で語るんじゃなく、個人的な直観のブログ終焉話。
まぁ、その、AIサービスに触れる中で、なぜか思ったので、何でだろうと自分なりの考察をした感じ。
自分の直感を自分で分析するというアホな展開……。

* * *

例えばそう、こういうAIサービスの捉え方があります。

「これからは、自分で考えないバカが増える」

……みたいな?
将来の予想をあれこれ語り、そのどれかが当たると、その人の信者と一緒に盛り上がり、「だから言ったでしょ」と言う系の人の捉え方なので、話半分くらいに見るとしても、こういう人って少なくないイメージがありますね。

でも、実際にサービスを利用すると、確実に考えているわけですよ。
どうしたら、相手が自分の望む“何か”を提供するのか。
“何か”を引き出す説明は何か、単語は何か、書き方は何か……。

そこには相手が自分の期待に応えられる“何か”を秘めていると、期待してしまっている自分がいるわけです。
これを信頼と呼ばずに何と呼ぶのか……。

そして、この信頼に応える“何か”が生み出され、さらに信頼度が増していく。このループの先にあるのは、自分だけのオピニオンリーダーじゃないのか。
あるいは、リテイクを苦にしない外注じゃないのか。

だとすれば、誰かの生き方を参考に、その人の意見を真似て、劣化コピーとしての有象無象になる生き方は、もう終わるんじゃないか。
これ、インフルエンサーの情報に群がって、その価値観をコピーして生きる人を指しています。

需要がなくなれば、インフルエンサー自体も存在感が薄れていくでしょう。

この群がる場所として、ある程度の役割を担ってきたのがブログだとしたら、一見すると関連性の無いサービスに思えても、ドミノ倒しの先に控える存在のひとつになるんじゃなかろうか……。

というのが第一の仮説。

* * *

二つ目は、身もふたもない話。

流行り廃り、トレンドの問題で、単純にダサいと思われるんじゃないかってこと。

自分の日記だの、お気持ちだの、誰でも見られる環境に、そういった個人的な感情をさらけ出す行為。
それ自体が、ダセーとなるじゃないか……。

ブログを書く時間があるほど、ほかの夢中になれるものがなく、優先すべきこともない。
その状況自体にダセー感が漂う?

あまり書くと、ブログが生きがいの人に恨まれそうだけど、こうしてブログを書いている自分もいるので、同じ穴の狢が自分を棚に上げているだけだから、特に気にすることもない……と思う。

* * *

サービスとしての終焉を考える場合は、ビジネスモデルだよね。

無料で情報を発信できる場所を提供する代わりに広告を出す、これがスタンダード。
利用者同士が競走するように、ランクやポイント的な何かを用意し、より注目を集める記事を書かせる。
すると、より読者を集める場所になる。
人が集まるなら、広告を出す意義がある……。

このベースを再確認してみて、新聞社も同じことをすればいいのにって思った。思っちゃった。
記者単位で似たようなことをし、競わせて……と。

まぁ、ツイッターの文字制限がなくなった時点で、無制限文字プラットフォームの覇権が確定したとすれば、もう遅いか。
リアルタイムで文字情報を発信でき、拡散力も違って、評価する方法もあって、閲覧数も確認できる……。

ブログが勝る点は、日付ごとに確認できることと、特定個人における記事検索機能か……。


まぁ、なんだ。
終焉と言っても、終着点は現状のmixiみたいなところでしょうね。

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新しいサービスを利用しない人が、今まで通りの生活を続けるのは、よくあること。
そういう意味では、終焉もないけどね。