皿の上に丸ごとバナナやリンゴが出てくる状況ってニッチすぎない?
— ワクワクそわそわドキンドキン (@rinzinbizin) 2021年7月11日
リンゴの皮くらい剥いて出してくれ。 pic.twitter.com/N7ZsIDmxq1
マナー講師による変なマナー解説というか、謎ルールの押し付けが、ネット上で話題になることが、たまにある気がします。
その独自マナーとでも呼ぶべきものは、思想の押し付けと大差ないんじゃないかと思ったというメモ。
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先に思い出話から。
そういや、一時期マナー講師の女性と縁があったなと思い出しました。
知り合った後に「マナー講師」だと聞かされたので、仕事ぶりを見たことは一度もありません。
ただ、その人は電車の優先席に座り、音漏れしている状態で音楽を聴いていたんですよ。
「マナー講師のマナーがなっていない」という状況が、私にとって唯一と呼べるほどの彼女の記憶。
なんで、それを思い出したのかと言えば、マナーは何のためにあるのかと思ったから。
たぶんね、あるからには理由がある。
互いの生活を送りやすくなるためとか、心証がいいとか、その方が合理的だとか……。
であるなら、その利点を気にかけ、常日頃から自然と「マナーの良さ」がにじみ出てないと、講師としては失格じゃない?
そういう視点で捉えたとき、誰得なマナーを押し付けるそれ自体が、マナー違反じゃないのかと思った次第。
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逆に、そういう謎ルール的なマナーを押し付ける背景は何か。
そう考えると、職業としての必要性が思い当ってしまう……。
「立ち振る舞い」を学んだ人が、接客以外で収入を得たい場合、「マナー講習」あたりが無難。
でも、どこでもやっているような「マナー講習」だと、同業他社との差別化ができない。
そこで、独自のマナー理論を展開し、新たな流派を生み出す。
茶道のように……。
茶道、よく知らんけど。
「お辞儀の角度は、30度が美しい」
「いや、35度だ」
……どうでもいいがな。
「畳のへりを踏んではいけない」のは、へりの耐久性が云々言われる方が、理にかなっていて個人的には好き。
そういう“へり”的なものに関しても、昔と今じゃ事情は違うでしょう。
かつては意味があった行為も、それが“何のため”だったか伝わらなければ、“そういうもの”として形が残っていく、かも。
機動隊に排除され無いための中腰棒なんだけど、機動隊もいないのにやってるのな
— ボト (@botomeze) 2022年9月27日
もはや古の出来事すぎてやってたことが記号化し、儀式みたいになったんだろうな https://t.co/xHyz4hybvm
そして、似たようなものを見つけ、どっちがルーツだと言い出す。
そんなことを、浅はかな後世の歴史家というか、程度の低い文化研究者がやりそうで怖い。
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でもって、特定の考え方を押し付けるそれ……。
俗に“意識高い系”と呼ばれている人たちが推奨する何かに関しても、所作ではなく思想におけるマナー講師に見えてならない。
彼らの食い扶持のために生み出され、押し付けられ、守らされている。
みんなが当たり前と捉えたら、それを打ち崩す新たなマナーを生み出し、古いマナーを破壊して回る。
洋服のトレンドのように一巡しながら、先導者は金儲けを続ける……。
これを「思想型マナー講師」と呼んでみたというだけのメモ。