数年後の自分は、こうなっていると考えるのが若いころ。
「あと何年」を数え始めるのが、壮年期。
あと何年働いたら退職して、あと何年で年金がもらえて……。
あと何年、あの会社で働けば……。
あと何年、あのメンツと顔を付き合わせれば……。
あと何年、同じようなことの繰り返しを……。
これが、くたびれる思考パターン。
考えると、何もかも嫌になって、仕事を辞めてしまう。
まぁ、実際に私は辞めた経験があるわけだけども……。
再び、同じような稼ぎ方を選ばないのは、この「あと何年」に苛まれるのも理由の一つ。
それ以前に、病人を雇うところもないでしょうが。
* * *
たまに、会社のことを思い出して、「何で、あんなに辛かったんだろう」と思うことがあります。
記憶の断片を辿れば、少し我慢すれば そこまで嫌悪するほどの仕事内容でもなかった気がする。
いや、問題は人なんだろう。
「また会いたい」と思える人は、そこにはいない。
でもって、この人と何十年も付き合っていくのかと思うだけで、人生の意義みたいなものを喪失する人が……以下略。
結局のところ、日々の我慢は許容範囲だけど、その我慢の数を数え始めたら、我慢できなくなるんでしょうね。
今後に想定される「未来の不満」まで数えるから……。
* * *
で、タイトルの件。
「ああしたい」「こうしたい」で今後の予定を考えることなく、引き算的な「あと何年」に囚われてしまうと、「夢」が見れないなって話。
「夢」と書くと奇麗だけど、何なら「野望」でもいいし、「欲望」でもいい。
我慢のカウントを始めてしまうと、そういった生々しい感情を失う気がする。
ただ、頭の中で くたびれた壮年期の人を想像し、その人に「夢」を語らせてみて、痛々しいとか、年甲斐もなくとか思うのだったら、そういうことなんでしょう。
自分と同じように思う人が、自分を同じような目で見ている……。
その視点を知ってなお、「夢」は見られるのか?
う~ん……。
日々の暮らしに埋没し、深く考えることもなく毎日を消費していく。
その方が「普通」で、「無理」のない人生かもしれない。
いやまぁ、個人的な「夢」としては、「元気な体」になることだけどね。
問題は、そのためにできることが思いつかないってこと。