メモ書き

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親ガチャ批判とメリトクラシー|努力万能論者は、機嫌が悪い

「今、若い世代で親ガチャという言葉が……」
「どんな生まれでも、努力によってですね……」
「その生まれの差があるって話でしょうに……」
「若い世代は、真剣な感じで使ってないのに……」

……という話題が、先月辺りまで展開されていた気がします。

で、旬も過ぎたと判断し、敢えて言及。
今なら、読まれる機会も少ないでしょうから。

 

親ガチャ批判は、なぜ努力至上主義に行きつくのか。
さらに言えば、努力万能論者が親ガチャという単語で、なぜ不機嫌になるのか。

その辺をメリトクラシーという単語で振り返るメモです。

* * *

メリトクラシーとは、もともとは、生まれや身分によって地位が決定された前近代社会から個人の業績(メリット)によって地位が決定される近代社会への転換によって広がった原理である。

berd.benesse.jp

引用元にあるような「能力=平等主義」的な発想のもとで教育を受けてきた人間にとっては、親ガチャという単語の許容は「不平等」の許容だから、不機嫌になるのかもしれません。
単語の背後に見える景色が、世代によって違うんでしょうね。

「がんばればみんなできる」の否定は、自分が受けてきた教育の否定。
ひいては、自分がしてきた努力や、人生そのものの否定に思えるのかも。

おそらく、そういった方々は下記のような記事も嫌いなはず。

東大生の親の6割以上は年収950万円以上

こういう例を挙げると、「自分は当てはまっていない」とか、イレギュラーなケースを持ち出し、「間違っている」というズレた指摘をする人が出たりしますが、データとして「多数派だ」という話ですよ。
何にでもイレギュラーはつきものです。

まぁ、こんなデータを持ち出すまでもなく、薄々気づいているような話じゃないでしょうかね。
こういうのは……。

最初の引用元にある『社会的不平等や格差の再生産に寄与しているという再生産理論が唱えられるようになった』のように、実際には「金持ちが、また金持ちを生む」ロジックは、別に珍しくないもの。

経験も資産も、雪だるま作りに似ています。
雪玉を転がして大きくしていくわけですが、大きな塊ほど大きくなりやすく、小さな塊ほど時間がかかります。

最初に貴重な経験をした人は、その経験が買われて別の貴重な体験をする機会を得やすい。
それに比べ、たいして経験が無いと、新たな体験が向こうから来る確率が激減。経験値という雪だるまを作りにくくなります。

最初は僅かだった差が、年齢を重ねるごとに大きくなっていき、還暦を迎えるころには……。
その序盤にあるのが、子供の頃の学力。

いや、遺伝。

* * *

こういう展開になると、「双生児法」に触れたくなります。

国によっては、双子が生まれたら、片方を養子に出すケースがあるとか。
で、一卵性の双子を追跡調査した研究によれば、片方が教育熱心な家に引き取られ、もう片方は教育に関心が薄い親に育てられた場合、その差は見られなかったというのが複数あるそうです。

あと、10代では差が開いても、大人になるにしたがって、その差が親のレベルに近づいていくとか……。

中には、別々に育ったはずの双子が同じ職業に就き、同じ名前の女性と結婚していたという事例も……。
この辺は私の記憶にある内容なので、ソースは不明。でもまぁ、探せば見つかるかも。

https://kodomogakkai.jp/m/gif/cafe_02_06.jpg


ご覧のように、そのすべてで、一卵性の類似性は二卵性を上回ることがわかります。つまり遺伝の影響があるわけです。

kodomogakkai.jp

上は、そのうち読むつもりの記事です。
「同じ双子でも、類似性が高いのは一卵性」という内容を探していて、見つけたもの。

同級生にも双子はいたので、一卵性だと外見からして似ているけど、二卵性は違うというのは、実体験としてありました。
この一卵性と二卵性の違いだけ見ても、遺伝子の影響の大きさって、理解しやすいですよね。

そもそも、背丈や体重、肌や髪の色が親に似るのに、学力だけ似ないと思う方が不自然。

この一点だけを見ても、親ガチャ。
親の持つ遺伝子が、子のスペックに絶大な影響を及ぼしている……。

SSR精子とN精子では、子のレア度の幅も変わるというもの。
相手にもよるでしょうが、N精子の範囲がNからRだとしたら、SSR精子はRからSSRみたいな?

こう書くと、生まれた時点で「終わってる」と思えてしまうから、必死に努力万能論を唱えるのかもしれませんね。
どんな困難も努力で解決できるんだぁ~ってね。

その努力も、遺伝子で決まっているとしたら……?

 

mycode.jp

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そう、これで努力万能論から解脱できます。

努力万能論の悪いところは、努力で万事が解決でき、誰もが可能という“希望”に見せかけた“絶望”を強いる点です。

なぜ、絶望なのか?

それは、解決できないのは「“努力”が足りないからだ」という論法になるからです。

これは、もはや宗教。
信仰心が足りないと罰を受けるが如く、努力が足りないと罵られる。

クソみたいな根性論の正体は、努力万能論だったわけです。
そして、それは「能力=平等主義」時代の学校で植え付けられていたと。

そう思うことにしました。
そんなメモです。

* * *

「やれば、みんなできる」

この悪しき思考。
いや、思考停止状態。

誰もが可能の根拠が、どこにあるというのだろう?

それ以前に、みんなできる必要性が、どこにあると?

例えば、練習すれば誰でも速く走れるとします。
それ、本当に価値ある?

極端な例を示せば、教室に猫や犬のほかにアヒルがいたとして、アヒルにも走るよう促すとします。
ヒルが賢明に練習し、走りが速くなったとして、大事な水かきがダメになっていたら、それって個性の喪失&得意分野の消滅じゃない?

そういう話。

だから、思うわけです。

「やれば、みんなできることに、たいした価値は無い」

誰もが可能な作業になれば、その作業の価値は下がるもの。
であれば、自分のレアリティを上げるために、何かに特化していく方がベターじゃないの?

江戸時代の教育じゃないけど、農業を仕事にしたいならた『百姓往来』を読む。
商売人になるなら『商売往来』を学ぶ。
そういった目的別の教育を……。

なんか、書きたいことからズレた。


努力万能論の行きつく先は、社会保障の低下じゃないかな。
なにせ、努力が万事を解決するので、不遇な人は努力が足りていない怠け者になる。
そんな怠け者を救うのは、社会規範に反することになるでしょ?

だから、行きつく先は、社会保障の低下。
生活保護受給者の批判。

自分が、そちら側になる可能性も考えずに……。

経済的には、トリクルダウンより、失業者を減らす方が、より広い層にも恩恵が及ぶと思うんだけどね。

じゃ、不遇な人をどう思うべきかって?

「運が無かったね」じゃない。
追及しても仕方ない。

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哲学者のマイケル・サンデル教授「成功をしていない、社会的に認められない人は、努力してこなかった責任を負っている」

toyokeizai.net


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てか、ガチャなら合成やら限界突破やら、鬼のような展開が待ってるから、誰かと合成されて消えないだけ、マシかもよ。