「終戦記念日に? 今日は9月7日だろ、終戦記念日は8月15日って知らないの?」
「それは玉音放送が流れた日。米艦ミズーリで降伏文書に署名した9月2日が、他の国では終戦の日。戦争も外交手段のひとつ、契約によって終わるもの」
「じゃ、9月7日って何?」
* * *
上記は、捉え方の違いの一例。
歴史とは、勝者の記録。
勝者に都合の良い解釈で記述された文章。
そんな見方があると理解しつつも、どこか遠い過去に限った話にすら思えてしまう。
でも、実際には近現代のそれも変わらない。
そのことを終戦の日の捉え方で思ったというのが最初のメモ。
* * *
『愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ』
オットー・ビスマルクの言葉。
原文の直訳は『愚者だけが自分の経験から学ぶと信じている。私はむしろ、最初から自分の誤りを避けるため、他人の経験から学ぶのを好む。』となっているそうだ。因みに通常使われているのは英語版『Fools say they learn from experience; I prefer to learn from the experience of others.』の訳なのだが、別段”ヒストリー”の単語が入っていない。こういうのは誤訳というより『超』訳とでもいうべきか。
25 | 12月 | 2015 | Sonar Members Club No.36 | Since July 2013
誤訳とされている点は、横に置いておくとしても、あまり好きな言葉じゃないんですよ。
「賢い人は、何からでも学ぶものでしょう?」
「愚者は、学ばないから愚者なんでしょう?」
過去の失敗といった経験から学べるなら、少なくとも愚者ではなく凡人以上になっているはず。
経験しても同じ失敗を繰り返す人が多いのに、経験から学んでいるわけですからね。
一方で、歴史というのは誰かの解釈や思惑が混じっているので、事実誤認が生まれやすい不確かなもの。
「文字」が存在しないために「歴史」にすらならない時代、考古学のテリトリーにおいてさえ、後世の人の解釈や思惑は入るもの。
酷いときは、ゴッドハンドによる新発見が常態化する……。
事件の証言を集めるように、幾つもの資料を突き合わせて、書かれた内容を確かめたところで、誰も書いていない箇所は推測するほかない。
そこから本当に学べるのかという疑問があるわけです。
ドイツ語の原文を見れば「歴史」なんて書いてなくて、「他人の経験」となっているそうですけど。
言うなれば「人の振り見て我が振り直せ」ですよ。
でもまぁ、敢えて「歴史から学ぶ」で進行していきます。
* * *
『歴史は繰り返す』
これも好きになれない言葉の一つ。
「歴史から学ぶ」とセットで見ると、面白いですが。
だって、歴史から学んだところで、歴史は繰り返すんですよ?
どうせ繰り返すなら、学ぶ意味ないじゃないですか。
同じ過ちを防げないのに何を学ぶというのか……。
年号や名称を覚えて満足? インテリ気取って優越感に浸る?
知識をため込んだところで、有用な使い道がないなら、それは無いのと変わらない。
役に立たない無駄知識を得るなら、稼げるスキルを身に着ける方が賢いというもの。
書いていたら、考古学を教えている人が愚痴っていたのを思い出しました。
「就職活動していた頃、専攻は歴史だと言ったら、面接官に歴史なんか学んでどうするのって言われて、何も言えなかった」
今なら面接官が叩かれて終わりの内容ですが、視点を変えれば「歴史を学んだ経験は、当社の業務に役立ちますか?」でしょうね。
歴史的な価値で町おこしみたいなところなら、そういう知識が求められるかもしれませんが、たいていの会社の業務に歴史は不要。
歴史をめぐる諸外国との問題把握は、歴史というより時事。
歴史を学ぶ人は、その辺のことを就職実績という歴史から学ばないといけないのかも。
あるいは、好きで学ぶだけだと割り切るか……。
でないと、歴史至上主義を掲げて「歴史を知らないバカが」が決まり文句のサイトを立ち上げてしまう。
自分が正しいと思っている歴史観を相手が持っているか否か。
それで何もかも判断し、ことあるごとに「歴史を知らないバカが」を繰り返す。
「歴史を知っている」というのが唯一のアイデンティティだから、同じ歴史観を持つ人が批判されていれば庇い、そうじゃない人が批判されていれば油を注ぐ。
批判されている理由が同じだとしても、その人の歴史観で態度を変えるダブルスタンダードっぷり。
……って感じの人と仕事をしていた時期があるので、思わず書いていましました。
いませんか? 周りに、そういう人。
* * *
嫌な感じの歴史マニアを思い出すにつれ、「歴史を学ぶ弊害」を考えたくなってきます。
「歴史が問題になるなら、みんな一斉に学ぶのをやめたら、アレコレ解決するんじゃね?」
頭を空っぽにして妄想に耽れば、こんな言葉も出てきます。
まぁ、何事も「今まで大事だと言われてきた」ことを見直す時期は要るもの。
疑いを向けてこそ、その真価が改めてわかると、思わないでもないです。
フラットに考えてみてください。
歴史を知らないとは、どういうことなのか……。
過去に目を向けない人になる?
過去にとらわれずに、どんな未来が良いかを語れる?
はたまた、歴史や伝統を軽んじることで、権利や主張が激しくぶつかり合う?
あるいは、自分にとって都合の良い歴史を捏造し始める?
こう考えていくと、新しい国をポンっと用意して、どうなるのか試してみたくなります。
今まで誰も住んでいなかった土地に、各国が資金を提供して理想を築く……。
合弁会社みたいにと書こうとしたところで、ダメだと思いました。
各国が資金を出すメリットを考慮すれば、そりゃ自国に都合の良い何かを入れてくるもの……。
資金を提供する国が多くなるほど、まとまりを欠いたトンデモ傀儡政権が誕生するでしょう。
製作委員会方式で金を集めたら、あっちの意見も、こっちの意見も聞く必要が出てきて、めちゃくちゃな作品になる感じに……。
* * *
思いつくままに書いていたら、それこそ「まとまり」を欠いたメモになってきました。
『現代の賢者は、歴史に学ばない』
このタイトルにしたのは、そのままの意味です。
もしも現代に賢者と呼べる人がいるのなら、歴史を指針にはしないだろう。
そんなところ。
意図するところは、歴史から未来は予測できないし、もはや人類は繰り返すような歴史に存在しないから。
新たなテクノロジーが生まれれば、それは無かったことにはなりません。
今更、電気のない生活に戻るとでも?
ネットが無い社会に戻るとでも?
テクノロジーは人の生活を変え、生活様式の変化は人の考え方、抱える問題すら変える。
つまりは、何に価値を見出すかは、その生活様式に直結している……。
こんな一銭にもならない文章を書き、人目につく場所に置いておく人が大勢いるのも、30年前に想像できた人は何人いるのか。
そのことは、繰り返す歴史とやらを学べば、想像できたものなのか……。
繰り返していたのは、生活様式に変化が少なかった時代の話ではないか……。
事が起こった後に解説することは容易である。いずれにしても、社会に起る現象を単なる現状の延長線上ではなく、幅広い変化の可能性を考えてシナリオを想定することが重要だ。
《中略》
「人々の欲求」と「技術をつくりだす努力」とが一致したときに、人類は100年という時間を有効に使って夢を実現させたことになる。
《中略》
技術の延長線上を見る技術予測の限界
引用元:
「今まで」を学び、その延長線上に「未来」があるとは限らない。
絶えず変化していく「未来」を前に見るのは、「過去」よりも「今の変化」だとしたら、賢者は何から優先的に学ぶだろう……。
何からでも学ぶのが賢者。
そう書いたものの、四六時中、全方位にアンテナを張るわけにもいかない。
だとしたら、人々の欲求や注目は何に向かっていて、その課題を解決するステップとして選ぶべきは何か。
ここに注力するのでは、なかろうか。
そんな想いからの『現代の賢者は、歴史に学ばない』でした。
* * *
とはいえ、今も歴史の延長線上にあるのは違いないし、歴史を紡いでいることに変わりはない。
その紡ぎ手の原動力は、欲求に他ならない。
あったらいいな、できたらいいな……。
どこかで聞いたような歌の歌詞みたいだけど、多くの人が必要と思うとき、時代は次のステップに進む。
問題は、次に進むための資金が集まるか否か……。
資金提供者が負うリスクと、得られるリターンの最適化。
この仕組みづくりが……と書いたところで、言葉に詰まったのでやめにする。
なんか、「必要は発明の母」で片づけられそうな話でもあるけど。
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人は、欲しいものを見失うと、停滞する――
技術戦略マップ2010 新エネルギー・産業技術開発の現状と将来
https://www.nedo.go.jp/content/100116651.pdf