「生前は、多くの方と親交があり……」
誇るべきことのように語られるけど、遺された側としては「連絡」という作業量になっている。
そういう意味で、「狭い方がいい」と後になって思う可能性が大きいけど、現在進行系でも「狭い方がいい」と思っている。
そんな気持ちのメモ。
何かにつけて人がやってくる。
プライベートな空間に、自分とは関係のない人が……。
それが、家族の交友範囲が及ぼす影響のひとつ。
相手にしたくなくても、家の中に入られたら、回避できないこともある。
玄関に立たれ、チャイムを鳴らされたら、呼びに行く手間も増える。
騒がれたら、その声は耳に届くし、不快な気持ちにもさせられる。
自分にとっては、何も良いことはない。
物でもくれたら変わるのかもしれないが、家族全員宛のプレゼントなんて、あまり望めるものじゃない。
それに、貰ったら貰ったで、お返しで金を使うので、無い方が気楽。
どっちにしろ、無駄に気を使ったり、時間を使ったり、別の何かを浪費したりするので、家族は「ぼっち」の方がベターだ。
詰まるところ、家族の交友関係は、望まぬ人間関係でしかない。
職場なら「これも給与分」と言える関係性だが、家族絡みは金にならないだけ、余計に気持ちの持っていきどころが難しい。
* * *
こういうことを考えると、子どもの頃や学生時代の反省にも繋がる。
あの頃は、頻繁に友人の家に遊びに行っていたし、家に泊めたこともあった。
家族は、さぞかし迷惑だっただろう。
とはいえ、親も似たようなことをしていたから、「そういうもの」と割り切っていたのかも。
もし、この迷惑っぷりを子どもの頃に指摘されても、理解できなかったに違いない。
自分の「好き」を集めることに、罪悪感がないからだ。
好きな玩具を集めるが如く、好きな友人も呼ぶ。
悪いことはしていない。
自分が良く思っていることは、他の人も“同じだ”という幼児性。
そんな感じに捉えていたように思う。
家族にとって、自分の友人は知らない他人であり、家の中にあっては異物でしかない。
そう思い至ることなど、あの頃の私には できなかっただろう。
* * *
こんな風に思えばこそ、今の気持ちを口にしたところで、鬱陶しい奴に思われるだけ。
言ったところで状況は変わらないし、無駄に疲れるだけ……という結論になる。
なにせ、うちは人の意見を聞き入れるのが苦手なタイプが多く、自分の意見を通すことしか頭にないもの。
この捉え方で気持ちが整理され、スッキリするなら話は簡単なんだけど、やっぱり腑に落ちない。
「なぜ、自分が妥協を?」
みたいになるからだ。
「なんで、アイツのために我慢を?」
ここまで思うと、苛立つために考えるようなもの。
考えても、何も改善しないのにね。
そんなときは「××なだけ、うちはマシ」と、自分よりも悪いケースを見て、心を落ち着かせるという手法を取る。
「下には下がいる」という発想自体、誰かを踏み台にするようで気が引けるけど、同時に「求めたら、キリがない」とも思わせてくれる。
仮に身内の爺様が鬱陶しいとしても、まだ元気な状態であれば、「手がかからないだけ、マシ」と思えるはず。
逆に、「鬱陶しくなくなれば……」という願いが叶ったら、次は「どうして、バフェットみたいに資産運用してないんだろう」と、無いものを求め始めるもの。
人の欲望には、際限がない。
家族と言えど、誰かの為に生きてはいない。
みな、自分の人生を生きているのに、誰かの都合を押し付けられたら……。
ここで、最初の問題に戻る。
「家族の交友範囲って、狭い方がいい」は、私の都合でしかない。
交友範囲を広げたい家族がいたとすれば、その願望も家族の都合でしかない。
お互いの都合がぶつかり合う中で、何を優先すべきか。
なかなかに興味深い駆け引きが毎日のように起こっている。
それが、もしかしたら家族なのかもしれない。
* * *
君のために生きている人は、君しかいない――