メモ書き

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「あの人は、いい人だから」という危険思想

「あの人は、いい人だから」

それは、主観に過ぎない。
なのに、「私が、いい人と判断した」ので、「あなたも、いい人だと思って」みたいに言ってくる。

その後、「いい人」ではないと判断を覆す結果になっても、自分の判断ミスにはしない。

「騙された」

そう言うだけ。
「いい人」発言に責任を感じたりはしない。
悪いのは、「いい人」と思わせた相手なのだ。

* * *

では、何が「いい人」なのだろうか?

その明確な定義はない。
「いい人」だと思えば、「いい人」なのだ。

自分にとって都合が「いい人」が、誰にとっても「いい人」だという錯覚。
それが「あの人は、いい人だから」という言葉には、多分に含まれている。

身内には優しい誰かが、家の外にいる他者にも優しいとは限らない
他者の犠牲の上で得た何かを身内に与え、身内の評価を挙げた末の「いい人」かもしれないし、その逆かもしれない。

そう、その人の一面を見ただけの「いい人」評価でしかないのだ。

仕事のときの彼、友人といるときの彼、一人のときの彼、酔った後の彼……

どの時点で評価するのかによって、「いい人」にも「悪い人」にもなるとしたら、それは「いい人」なのだろうか?

* * *

以前、とある会社で働いていた際、ある人から指摘されたことがある。

「もっと、彼女にXXすべきよ」

XXの中身は重要じゃない。
要は、すべき行動を指示されたという話。

この指摘は、対象となる「彼女」の話を鵜呑みにした人が言ったものだ。
「彼女」は同じチーム内で働く女性で、指摘してきたのは「彼女」と昼飯を食うだけの間柄の人。

一緒に働いている私の「彼女」への評価と、ランチ仲間の「彼女」への評価では、大きな隔たりがあった。
ランチ仲間は、その仕事ぶりを「彼女」の口から聞かされている。「彼女」は自分に不都合な箇所を除き、不満だけを伝えたのだろう。

それが、回りまわって「もっと、彼女にXXすべきよ」という指摘に代わり、私のもとへと返ってきたわけだ。

一方の言い分だけを聞くと、問題の本質は見えない。
「自分が優位」になる情報しか、言わない人がいるからだ。

指摘してきたランチ仲間は、それだった。何もかもが、的外れだった。
こちらの言い分には興味がなく、状況を説明しようとすると、こちらの気持ちを勝手に推し量り、「こう思ってるんでしょ?」と先回りする。
面と向かって推測してくる人は、自分の予想が外れているとは、考えてもいない……。

そして、最後には言うのだ。

「あの人は、いい人だから」的なそれを。

ランチ仲間として「いい人」だとして、仕事仲間としても「いい人」とは限らない。
逆に、ムカツク嫌な奴でも、仕事仲間としては優秀なんて、よくある話だ。

* * *

この件を不意に思い出し、感じるのは別のこと……。

「彼女」のランチ仲間だった人も女性なのだが、何の疑いもなく「彼女」の話を信じていたのだろうか?
その疑問。

こういう「嘘」に関係する問題は、女性の方が見抜きやすいイメージがある。
女友達との関係性の中で、独自の人間関係ノウハウを身に着けるような……。そういう何かが、ランチ仲間には不足していたんじゃないか。

見た目で言うなら、「彼女」は着飾る女で、ランチ仲間は着飾らない女。
そのくらいの差があったけど、そういうカテゴリーの違いみたいなものが、疑いの目を曇らせていたのかも……。

そんな風にも思ったが、「嘘」と知りつつも乗っかる。
その方が、自分の「ランチタイムにおける都合の良さ」は、向上すると判断した気がしないでもない。

* * *

なんにせよ、「あの人は、いい人だから」というのは、根拠に乏しい情報であり、適当な評価の代表例だってこと。


もしも、誰かを「悪い人」と言うより「いい人」と言う方が、自分が良く見えると思って使っているなら、その人は危険思想の持ち主かもしれない。

他者は、自分にとっての材料としか思っていないのだから……。

行き着く先に待つのは、仲間の悪事は隠し、敵の美点は潰す。そんな自分の都合絶対主義。