「免罪符としての貧乏エピソード」と書くと語弊があるけど、そんな使われ方をしている気がしないでもない。
「今では大金持ちで大人気のあの人にも、こんな苦労エピソードが!?」
これで、その人に親近感がわく……。
それがないと、生まれからして違う成功者というイメージのまま。
そんな手が届かないストーリー上の存在から、自分たちと同じ立ち位置からの成り上がりストーリーに変わるもの。
それが貧乏エピソード。
だとすれば、貧困は正義なのか?
貧しければ、認められるのか?
貧しさは、評価されるべき要素なのか?
『貧すれば鈍する』と言われても?
『衣食足りて礼節を知る』と言われても?
だから、貧乏自慢に苦労自慢、不幸自慢をする人がいるのか?
* * *
個人的な意見を書けば、苦労に意味はない。
ただの経験である。
同じ苦労をしても、その後の結果は違うもの。
そこに何の優位性があるというのだろう。
苦労は、苦労したというだけ。
体験から学ぶことはできる。
だが、体験しなくても学習は可能。
体験でしか得られない何かが、そこにあるのか?
結局のところ、自分の人生を無駄だったと思いたくないだけ……ではないか。
つらい経験ほど、価値があると思いたい。
それ故の貧乏自慢、苦労自慢、不幸自慢。
そして、それは「何の苦労も、してなさそうな……」という侮蔑に繋がることも。
苦労をすれば、偉くなるとでも?
そこにあるのは、ただの苦労慣れなのに?
* * *
たまに、思うことがある。
苦労を回避できる能力が高く、生きるセンスに優れているなら、それこそ「苦労知らず」がデフォルトじゃないかと。
「自分の配偶者も管理できない奴が、国を管理できるわけがない」
某所で見かけた政治批判だけど、同じ文法で別のことも言える。
「自分の生活もままならない奴が、社会を改善できるわけがない」
これ。
狭い範囲の関係性で失敗した者が、より広い範囲の関係性で成功するはずがない。
それを言うなら、身の回りの不自由すら改善できない者が、価値ある意見を言うはずがないという返しになる。
価値ある意見を言えるくらいの見識があるなら、自分の身の回りを改善しているからだ。
厳密には、関係性が違えば分野が違うので、あまり参考にならないもの。
恋愛下手でも経営上手はいるし、恋愛上手でも経営下手はいる……。
それでも、評価基準としてわかりやすいからか、よく使われているのでしょう。
ただ、そこには常にカウンターがスタンバっているわけです。
「ロクに金も稼げない奴が……」
「人生の見通しが甘いんだよ……」
こういう展開になったとき、貧困は正義たり得ない。
貧困は、失敗の証明。
失敗続きの者に……以下略。
そういうことを考えていると、こうも思う。
「庶民感覚があれば、正しいのか?」
経済を考える際、モノの値段を知ることは大事。
何が、いくらで取引されているのか。
そういう意味合いでの庶民感覚は必要とはいえ、国家予算規模のことに、家計を持ち出しても意味がない。
法定通貨を刷れる国家と、刷れない一般家庭の財布を引き合いに出す時点で、どうかしている。
えっと……。
何を書きたかったんだっけ?
書いているうちに、整理したかったモヤモヤを忘れたので、この辺でやめることにします。