メモ書き

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スポーツなんて、ただの広告ビジネスなのに

なんか、必要以上に「スポーツは、崇高なもの」と見られていないか。
そんな話です。

最初に私のポジションを書けば、スポーツ不要論派みたいなもの。
なので、そういう見方をする人間の言葉として読んで、スポーツ推進派の意見と照らし合わせ、その考え方のバランスを調整してね……みたいな?

att3200.hatenablog.com* * *

なぜ、「スポーツは、崇高なもの」のように語られるのか。

それは、興行だから。

新聞やテレビ局が「スポーツの主催者」というケースは、飽きるほど見たはず。
メディアが自らが主催するものを貶すはずはなく、その価値を高めるために誇大表現したところで、何ら不思議はないってもの。

同じ興行であっても、自分が主催する興行でクラスターが発生したら問題視せず、逆に広告主以外の興行なら問題視する。
いや、クラスター発生の有無にかかわらず、そんなもんでしょう。

eスポーツは、スポーツなのか」論争も、突き詰めれば「俺たちの興行じゃねぇ」の一言。
言い換えれば、「俺たちのスポーツって領分に食い込むなら、ゲーム屋はガンガン広告を依頼して、一枚噛ませるのが筋ってもんだろ」かもしれない。
「噛ませないと、世論操作で叩かせるぞ」という脅しと……とまで書いたら、言い過ぎかな?

まぁ、ただ単に「読者層は、こんな感じのネタで釣れる」という浅い考えからかも。

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そう、興行なのです。
メディアのビジネスモデルは、広告。

月に数千円の購読費用で、配達員、印刷費用、記者や撮影者の費用は賄えない。
稼ぎは、紙面の目立つ場所に入る広告から。テレビのCMも同じ。

そういう意味で、スポンサーの社名だらけのスポーツも、同じ広告ビジネス。
主催者が見てほしいのはプレーではなく、スポンサーの社名というわかりきった話。

広告ビジネスとして、自らの興行を宣伝して価値を高め、実際以上に価値を釣り上げているのに、その宣伝を真に受けて「崇高さ」を語る人が多い……気がする。

まるで、そこには美しいものしかないような言いようで、尊さを語る人までいる始末……。

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その洗脳の結果のひとつとして、スポーツにおけるリスクの軽視があるのでは?

「スポーツにケガは、つきもの」

これ。

やらなくていい動きをして、一生引きずるケガをする愚かしさを思春期に強要する。
それも部活動という専門的な指導員がいるかもわからない現場で。

スポーツが上達したところで、何の役にも立たないのに、スポーツでかく汗の素晴らしさだけが強調される。
まるで、宗教じゃないですか。

スポーツ選手になれば役に立つ?
なる可能性の低さと、選手生命の短さと、大きすぎるリスクを考えると、バカの選択としか思えない。

「数学は将来、使わない」と頭脳労働者以外が言う以上に、スポーツに縁がない人生を送る人は多い。
「適度な運動」が必要だとしても、スポーツでは「過度な運動」しか、要求されないのではないか。
何せ、目的が運動することにではなく、相手に勝つことにあるのだから。

その辺から言っても、「適度な運動」のためには、体操や散歩をした方がいい。

* * *

でもって人間関係だ。

いなかっただろうか?

授業でチーム分けされたら、自分のチームが勝たないと気が済まない奴。
そういうのに限って、クラスの平均点を大幅に下げ、他クラスの勝利に貢献しているのだが、その辺は気にしない。

こういうのが増長するキッカケが、スポーツ崇高論。

その洗脳から解けないまま大きくなり、筋肉脳の持ち主となって、体育会系として非論理的な根性論を唱えてきた。

それが「仕事で楽をするな」という論理展開に繋がるのかも。
「俺の時代は紙とペンで計算したものだ。だから、エクセルは使うな」みたいなアレ。

ハッキリ言って、苦労は無意味である。
意味があるなら、苦労の分だけ給与を貰えていいはずだが、実際に賃金を決めるのは別の要素だ。

稼ぐことに特化し、その手段の効率化を図る……。

う~ん、眠くなってきた。
やめよう。

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アスリート・ファースト?
勝手に練習してるんじゃねぇ。

それが未来。