「XXに抗議します!」
「△△は反対!」
「◇◇は◆◆だ!」
そんな感じで、自分の意見を言うわけです。
その主張自体は倫理的に「正論」だとしても、そこに「ゴール設定」がないと、まともな終わり方はしない……。
なぜか?
ゴールを定めていないので、参加者の解釈は各々で違うし、辿り着こうとしている場所も違うから。
システム開発に関するイラストで、「クライアントが求めているもの」「営業担当が認識しているもの」「開発者が依頼されたと思っているもの」が違い、誰も望んでいない成果物になる展開は、割と目にします。
それと同じ。
例えば、「△△は反対!」という意見だとしても、反対する理由は人によって違うわけです。
ある特定の条件をクリアしていないので反対という人もいれば、単に嫌いだから反対という人もいるでしょう。
そうなると、前者の条件をクリアした時点で、仲違いが起こるわけです。
「同志だと思っていたのに、反対活動を辞めるなんて……。この裏切者!」
「アイツは敵に寝返ったに違いない」
そして、内ゲバです。
味方だった者同士で殴り合う……。
“大きな理想”を掲げ、破壊の限りを尽くす人が行きつく先は、こんなものではないでしょうか。
だから、最初に制約条件を詰め、その活動のゴールを定めるべきなんです。
要件定義、大事。
* * *
酷い例だと、せっかくゴールを設定したのに、そのゴールを動かし、将来の揉め事の種になる場合も……。
「人はみな、平等」という教えがある宗教があったとします。
これも一種のゴールですね。
でも、それが誰かにとって不都合になった。
例えば、植民地化した場所でプランテーションを行いたいとか、そんな感じ。
そうすると、「人はみな、平等」という一種のゴールを動かし、「アイツらは、俺らと同等の人じゃない」という解釈を始める。
すると、「同等じゃないから、教え導く義務がある」みたいな発想になり、侵略を正当化し……以下略。
こうやって問題を広げた社会で言う「人はみな、平等」と、そういうことをしてこなかった社会で言う「人はみな、平等」は、その歴史的背景が違います。
どっちが優れているとかではなく、違うという話。
動物愛護の先進国は、それだけ虐げてきた歴史がある。
そういう可能性……。
小動物をいたぶるのが流行っていたので、それをやめさせるために始まったとか。そういうの……。
そんな過去があった国が、他国の動物に関する伝統を見て、“自分たちの過ち”と同じと錯覚し、あれこれ言ってくる。
そういう場合は、ゴールの設定ではなく、スタートの設定が違ってるんですけど、あまり気にされていないかな
* * *
何か活動するなら、ゴールの設定は大事。
そして、決まったゴールは、おかしな理由で動かさないこと。
そんなことを思ったというメモです。