メモ書き

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ゴールの無い議論

誰かの「お気持ち表明」に対して「お気持ち表明」し、互いに攻撃されたと思ってやり合う。
その人にとっては、唯一の「お気持ち」なので、相手の「お気持ち」なんて知ったこっちゃないし、自分の感情こそが正解であり、それに寄り添わない者は敵だという認識がある。

しかし、「お気持ち」は「お気持ち」でしかない。
感情に正解も間違いもない。

仮に、互いの「お気持ち」を理解したとしても、実際には何の意味もない。
それは、なぜか?

ゴールが無いからだ。

「お気持ち表明」は、それ自体が目的である。
「お気持ち」の先に、これをこうしたいという願望や計画が無いのであれば、それはスルーすべき感想でしかない。

誰かの感想に、これはこう感じるべきだと言ったところで、そう感じるようになるだろうか?
「お気持ち表明」した際の状況を見て、これを知った後に同じことが言えるのかと突っ込んだところで、それを知らない状態での「お気持ち」が嘘になるわけじゃない。
その時点での感情が「お気持ち表明」したときのそれである。
あとになって違う感情を持ったところで、嘘の感情とはならない。

むしろ、突っ込まれれば頑なになり、初期の自分の感情は間違っていなかったと、不都合な情報を避け、好都合な情報を集めるでしょう。

ってなことを思ったという話。

* * *

書いていて思ったのは、ロー対ウェイド事件のこと。

「人工妊娠中絶を規制するな!」
からの
「クリスチャンになったので、中絶反対!」

これ。

詳細は知らないけど、感情について議論する人を見ると、なぜか思い出すんだよね。