メモ書き

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自粛生活が余裕を生み、政治や社会を気にかけ始めた説

忙しく働いていると、政治や社会を気にかける時間もないよね。
そんな話です。

それが自粛生活になり、通勤から解放され、職場の人間とも距離が生まれ、結果的に「余裕」すら生まれたオフィスワーカーもいるんじゃないか。
そういう状況になってはじめて、「政治や社会を見る時間」が生まれたのではないか。

そう思ったので、かつての自分の生活を振り返りました。

* * *

東京で働いていた頃、世の中の動きみたいなものは、出勤前のテレビでチラッと見るか、ポータルサイトで見出しを見る程度だった気がします。

職場に行き、仕事をして、帰宅。
帰りは、最寄りのスーパーに寄って、安くなった食材を買う。
ご飯だけ炊いて、おかずは半額の揚げ物に、お惣菜など。
飲み物は、ペットボトルのお茶。

炊くのは朝だけで、夜に食べる分は、冷蔵庫に入れていたもの。
それを電子レンジでチンする。
そして、寝る前には米を研ぎ、翌日分をセットする……。

夜中に夕飯を食べ、パソコンを起動し、メールなどをチェックする。
仕事絡みの情報も仕入れる……。

風呂は、帰宅時間が遅ければシャワー。
休みの日か、早めに帰れた日は お湯をはって入浴。

こんな感じでした。

休みの日は、自転車で行ける範囲で買い物。
たまに、飲み友達と夜通し飲む……。
交際相手がいた頃は、どっかに行って、遊んでいたかな。
もしくは、自分の家に呼んで何かしていた。

* * *

世の中を知るために使う時間は、費用対効果として低かったです。
娯楽や仕事絡みに時間を使う方が、時間的投資としてリターンが大きかったという話。
政治を知ったところで、得られるものが少ない……みたいな?

いや、違いますね。
9割方、仕事が脳内を支配していたので、それ以外を考える余裕が無かったです。
チェックする世の中の動きは、仕事に関係ある箇所のみ。そんな偏食状態。

あのまま働いていたら、どんな人間になっていたんでしょうね。
きっと、どこかの誰かがメディアを通して言った言葉を、自分の意見としてコピーして、それで知った気になっていたんでしょう。
メディアの主張を鵜呑み。ミスリードされても気づくことはない……。

自分で何かを調べ、何かを発信する機会が少ないまま、仕事上の日々の課題に取り組むだけだった気がします。

* * *

かつての自分のような人間が多いのであれば、今回の件で「見つめ直す時間」みたいなものができ、「仕事上の日々の課題」<「黙殺してきた課題」になった人も、多いのではないでしょうか。

デジタル化だって、散々言われてきたのに、「変えるのが嫌だ派」の勢力が強く、実施されづらかった……。
そのメリット・デメリットを並べて検討することさえせずに、「昔から、こうだから」みたいな押しつけが、まともな意見として扱われてきた……。

おそらく、今回の件が無ければ、そういった手遅れが超手遅れになり、問題は取り返しがつかないほど大きくなっていたかもしれません。
そういう意味では、「改革の手遅れ」になる前に、気づかせてくれた存在。
そう捉えることも、一部の人には できるかもしれません。
ここでいう一部は、今回の件で犠牲とは縁遠い人たちですかね。

* * *

不要不急の外出を控えることで、「何が要らないのか」がハッキリしたでしょう。
断捨離をすれば、要らない服が出るように、自分の行動の断捨離も行われた。

結果、需要が低下する業種もあれば、低下を嘆かれる業種もあり、いっそ無くなれと言われる業種もある……。
社会の断捨離が始まったのです。

需要の低下で「無駄」と切り捨てることも可能ですが、その無駄のお陰で経済を回せていた一面もあるわけで、なかなかに世の仕組みとは複雑怪奇。
まぁ、不思議なのは、人の行動と言うべきでしょうか。

ほかの生物で、これほど「無駄」に執着する生き物はいないでしょう。
そして、その無駄に対する需要の急激的な変化を起こす生き物も……。

行動変容とは、恐ろしいもの。

一方で、じわじわと浸食されるような停滞社会にあっては、待ちに待った変革の空気を感じた人もいたのかも。
「これを機に……」
そんな言葉を言いたくて仕方なかった層が、土の中から顔を出した感じです。

そういった人が進む先にあるのは、ジジイ文化の終焉……かな?
根拠は、ありません。


* * *

よく人生設計として、何歳まで働いて……と、当たり前のように予定表を書きます。
「当然、健康的に働ける」と思って、予定を作るわけです。

私は無理でした。
病気になったんで。

まさか、それで田舎に戻る羽目になるとは、思ってもいなかった。
こういう当たり前が崩れる日は、簡単にやってきます。

自宅療養になっても、普通に歩けるレベルでした。
それが昨日、少し足の指を痛めただけで、一時的にですが歩行が困難に……。

今は、昨日ほど痛くない。
多少変色した程度で、骨には異常無さそう。
突き指かな?

話を戻し、当たり前を当たり前として捉えられることが、どれだけ幸せか。
こういうときに実感しますよね。

逆に、今までの「当たり前」が崩れたとき、認識の総点検が始まるんです。
田舎で暮らさなきゃいけない、車の運転が許されない、病気である……。
その状態で、自分に何ができるのか。
どうやったら、金が稼げるのか。

答えは、シンプルでした。
ネットとパソコンがあれば、稼げるんです。

ここ数年、自主的に自粛生活で、テレワークですよ。
もうベテラン。

* * *

そんな気づきが、他の人にも起こる……。
仕事に埋没していた人に余裕が生まれ、黙殺してきた課題が白日の下に晒されるとき、自分の意見を言わないのは勿体ないこと。

人間は、もっと楽ができる。
楽をしたい欲求が、成長を加速する。

人は、苦労をするために、生まれてきたわけじゃない。
多くの人が苦労をしなくて済むよう、工夫するのが最善である。

ってなことを考えたというメモです。