私たちは、“同じタイプ”の老害にはならない。
もしかしたら、老いることすら許されない。
ただ、害悪にはなれる。
そんな話です。
* * *
この手の話になると……
『子供叱るな来た道だもの 年寄り笑うな行く道だもの』
みたいな切り返しがあるもの。
そう思う気持ちもわからないではないけど、それを模範解答にするのは、個人的には思考停止に思えます。
言葉は、古くなるもの。
そこに“見るべき点”を見出すのは簡単だけど、問題点を見つけるのは大変かもしれない。
『酒は百薬の長』
……と言ったところで、元の発言が誰なのかもわからない。
酒飲みが、自分の飲酒を正当化するために言ったのなら、単なるアル中の自己弁護。
仮に医師が言ったとして、何百年も前の医師の判断など医学的根拠に欠けるでしょう。
「針聞書」が医学書だった時代であれば、「腹の中には虫がいて、その虫たちがあらゆる病気を引き起こしている」が、根拠になるんでしょうから……。
よろしくない要素が確認されているなら、避けるのが自然。
そういう意味で、『酒は百薬の長』は言葉として過去のもの。
同じように、『子供叱るな来た道だもの 年寄り笑うな行く道だもの』も過去になっていく。
だってほら、今の年寄りのようになるには、似たような体験が必要だもの。
これから先、ネットのない青春時代を送る人は出ないでしょうし、ちょっとした行き違いで逢えずじまいも少ないでしょう。
後半のは、スマホがあるからという話。
携帯電話がなかった頃、どうやって待ち合わせしていたのかすら、今となっては思い出せないのでは?
固定電話しか無い頃なんて、恋人と連絡を取るために家に電話したら親が出て、気まずい思いをする人も多かったはず。
まぁ、そういう違いがあるから、“同じタイプ”の老害にはならない。
何というか、自分に不都合があったら、面と向かって誰かに文句を言わないと気が済まない。
そういうタイプの老害は減るって話。
代わりに、ネットで愚痴る人が増えるでしょう。
これが、“同じタイプ”の老害にはならない一例。
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「ネットやらない」ワクチン接種で混乱 役場に行列(2021年4月26日)
実際、「面と向かって誰かに文句」という行動は、さらなる混乱を生んでしまう。
上のニュースでは、ワクチンを接種する側の不満だけを取り上げていますが、自治体側の言い分を伝えていないのは、報道としてフェアじゃないし、何が課題なのかを見えづらくしています。
一方で、コメント欄が開放されているおかげで、別の視点がカバーされているのは興味深い。
『文句を言いに押し寄せるから、その対応に追われて業務が滞り、電話に出られない』
自分の不満を最優先にした結果、全体の非効率化を招いている。
「あなた方が長々と不満を吐き出したところで、誰も得をしないんだよ?」
タダで利用できるリソースは必要以上に用い、コモンズの悲劇に繋げてしまう危うさ。
それが、現代における老害メンタリティーの一端。
そして、新しいことを学ぼうとしない姿勢。
餌が運ばれてくるのを待つ雛鳥が如く、自分は何もせずに口を開けているだけ。
それで餌が入らないと、不平を言う。
その辺が「ネットやらない」に集約されている……。
「やる」「やらない」の自由は、あるでしょう。
しかし、その選択した結果のデメリットは甘受すべきもの。
時代に置いていかれる選択をしたのなら、「置いていかれる」ことを嘆いてはいけない。
現代を生きる努力が、足りていないのだから。
彼らが若者に説教をする感じで言い返すならば、そうなる。
「昔は、こうだった。ああだった……」
昔がどうであっても、生きているのは現代。思い出の中の昔じゃない。
なぜ、今更 過ぎ去った昔に基準を合わせ、退化しなくてはいけないのか?
そんなに現代の足を引っ張りたいのか?
さらに言えば、選択した結果のデメリットは甘受せずに、次代に押し付けているのも事実。
銀行預金という金が増えず、引き出す際に金が減る投資に執着するあまり……。
まぁ、なんていうか、彼らがS&P500でも積み立てていたら、状況は変わっていたよね?
それは それとして……。
ワクチン接種には、妙案があります。
予約なしの一斉接種です。
数の不足をカバーし、混乱を避ける妙案。
ただし、真面目に聞く類の案ではありません。
その内容は、偽薬を用いるというもの。
決められた数日間に一斉接種。
1回目も2回目も、自分で調整して来ること。
指定の量をオーバーしたら打ち止め。
他の会場に行ってください。
接種するのは、ワクチンと偽薬の2種類。
どちらが接種されるかは、担当者の判断に委ねられる。
なので、態度が悪い人は、偽薬を打たれる可能性大。
すると、大人しくなるはず。
逆に、それでも態度がデカくなり、恐喝してくる人は捕まえる。
で、善良なる人が生存しやすく、そうじゃない人が……以下略。
こうすると、移動手段が無い人は その時点で終了になるので、行政サービスとしては無理でしょう。
「公平に、すべての人を」という理想を掲げれば、どうしても全体的な効率は下がるもの。
そう、自由を認めるほどに効率は悪くなり、できない人は社会の足を引っ張る存在。
「言い方!」と言われそうですが、現実問題、できる人ができない人をカバーしているから、社会は成り立っている。
できない人だけで、社会は構成できない。
倫理的に良いとか悪いとかを言い出したところで、そこに存在する問題が消えることはない。
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こんなことを急に書き出したのは、先の動画を見たから……。
それと、下の本を紹介する記事が目につくようになったから。
LIFESPAN(ライフスパン): 老いなき世界
サーチュイン遺伝子がどうとか、そういう研究の先に待つ“老いなき世界”を想像し、不老不死を夢見るのは自由ですが、それって“死ねない”状態であり、老いることすら許されない……と言えなくもない。
永遠に老いなければ、老害も消えるでしょう。
老いていないだけの害悪は存在し続けるでしょうが、それは年齢とは無関係。
ダメな人は、ずっとダメです。私が知る限り。
そんな研究を持ち出す以前に、平均年齢がえらいことになってるんですよね。
日本の平均年齢48.36歳。
四捨五入したら50歳ですよ?
『人間五十年下天の内をくらぶれば夢幻の如くなり』
ほら、言葉は古くなる。
年金の支給開始年齢を引き上げ続け、「まだ年寄りじゃない」と言われる未来を思えば、別の意味で「老いることが許されない」と言えるでしょう。
そんな状態では、老害になりようがない。
老害にすら、なれない。
年を取れば、厄介者になって当たり前。
それが、許されない世代。
それでも、私たちは 老害になると?