デモって手段は、賢い手法なんだろうか?
何か主張したいことがある。
だから、同じ志の人が集まって声高に叫び、広がって歩く……。
「抗議をする人が、これだけいるよ」
そんなアピールになるだろうし、報道したい連中も集まる。
街を行く人に、「何かを問題視する人」が認識可能となり、「実は自分も」と賛同者を増やせるかもしれない。
一方で、その時、その場所に行かなければ ならないので、同じ志を持っていても参加できない人も出てくる。
移動手段もタダじゃないし、時間も失われる。
中には妙なのもいて、そういうのと接点を持ってしまう危険があったり、今の時勢なら感染拡大のキッカケにもなるでしょう。
そんなデメリットでさえ、
「でも、同じ気持ちなら、参加するのが当たり前だよね」
……といった論理展開で、簡単に同調圧力が かけられてしまう。
それこそが、デモの最大の力なのかもしれない。
忌み嫌われる同調圧力。
“日本で強い”とされる同調圧力。
その同調圧力の最終進化形態が、デモではないのか。
だけど、もう時代遅れじゃないかな?
* * *
現代版デモとして、「SNS上の拡散」があります。
「抗議の投稿が何万件」というアレ。
投稿数をアピール・ポイントとするのが、ミソです。
アカウント数なら、アカウント1に対し1だけど、投稿数ならアカウント1に対し無限大。
1アカウントで、1万人の意見にすら見せられるかもしれない。
古代中国で、夜襲の際に たいまつを牛に幾つも持たせたように、見た目の数を偽装できるのが投稿数……。
人1人に対しては、アカウント数ですら無限大だけど、その労力は「アカウント開設 > 複数投稿」でしょう。
何なら、botでいい。もう、工作し放題。
だから、目に見える形で「何人の人が抗議している」という体を成すには、実際に集まるのが確実なんでしょう。
ただ、それも工夫次第。
SNS上の投稿に「抗議内容」を書いたプラカードでも持った写真を付け加えることで、意見の水増しじゃない「そこにいる確かな人の声」に変わるはず。
※ AI自動生成技術対策として、背景などとセットで
それなら、その時、その場所にいなくても、ネットへのアクセス環境さえあれば、多くの人が実現可能な抗議スタイルとなるでしょう。
何より、デモでは たまたまインタビューされた人の声や、たまたま映った人が持っていたプラカードしか、見た人に届かない。
それに比べ、SNS上の投稿であれば、何にどう憤りを感じ、どうしたいのかがわかる。
同じ参加者であっても、考えの違いを無視されて、一緒くたにされることもない。
何より、近隣住民に迷惑をかけることがない……。
まぁ、その辺の迷惑を考えないのが、デモのスタイルなんでしょうけど。
でもって、大勢の人が集まることに乗じ、「騒いでいいんだ」と勘違いし、「何をやってもいいんだ」と暴れ出す危険性が低くなる。
そう考えると、デモという手段の「古さ」を感じてしまうというメモでした。