メモ書き

****

ディベートで、人は おかしくなる

www.weblio.jp

教育現場に、ディベートを。

世の中、話し合いで決めるんだから、討論の作法を学ぼう。
意図は、そんなところですかね。

ただ、議論を学ぶために議論をする。
これは、学問のための学問みたいな感じがして、「議論の目的」から遠ざかる気がしないでもないんですよ。
まぁ、やったことがないので、想像でしかないんですけどね。

話し合うのは、課題に対する答えを出すため。
それも、より良い答えを出すため。

であれば、相手の主張を持ち帰り、吟味したうえで、次の意見を提出する。
この繰り返しの方が、ベターなんじゃないかと思うんですよ。時間はかかりますけどね。
※ 互いに相手の意見を認め合える関係性も必要ですが。

ほら、人間って、ものの言い方で左右されるじゃないですか。
そのうえ、「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」的に、嫌いな奴の意見は全否定する。
結局、誰の意見なのかが最重要になってしまう。

「〇〇賞を受賞した人の意見だ、間違いない」
「権威ある学者の説だ、間違いない」
「有名な格言だ、間違いない」

その意見がどうなのかよりも、データがどうなのかよりも、誰の意見なのかで納得する。
だったら、その人に全権を委ねた方が早く、話し合う意味もない。

おっと、書きたい方向から逸れてしまった。
一番メモしたかったのは、議論の場で論破され、ボコボコにされた側の心境です。

役割として否定側と肯定側に分かれたとしても、言葉の殴り合いの末に“負かされた”側は、どこに対して“ストレス”を抱くのか。
それは論破した相手であって、彼らの主張ではないか。

だとしたら、“負かされた”側は相手を否定するため、自分に都合がいい主張を集め、再戦を希望するのではないか。
役割として与えられただけの否定側または肯定側というポジションが、そのまま自らの主義主張、ひいてはアイデンティティーとなるのではないか。

そして、こじらせた先に待つのは、極論。
偏り過ぎた“おかしな発想”になるんじゃないか。
そう思ったというメモです。

もちろん、最初に提示した「主張の持ち帰りと吟味」という手法には、スピード感が無いという欠点があるので、使えないケースもあるでしょう。
それを否定する気はありません。
上手く言えませんが、良い意見を出す人の中には、熟考タイプの口下手が多い気がするので、そういう人が活躍できる手法も提示したい気持ちがあったんですよ。

ソフィストに需要があるなら、アレですけど。

* * *

『論に負けても実に勝つ』