メモ書き

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何が正しいのか わからない人は、ゴシップ誌を見ている

様々な情報が飛び交う状態になると目にするのが「何が正しいのか わからない」というフレーズ。

この言葉には前提として「正しいものがある」という思い込みがあるので、「すべてが間違っている」場合は、想定外の結果になるリスクを負っている……ってことは、脇に置いておく。

何というか、そうね。
メモしておきたかったのは、情報を得ている媒体を間違うと、事実とは向き合えないってこと。

特定の思想を持つ人をターゲットにした媒体とか、賢くない書き手による適当な記事とか、自分の研究対象を持ち上げたいだけの学者の話とか、そういうのを判断の基準にしてしまうと、ダメだねって話。

ネットで記事を見るなら、著者のプロフィールを最初に見るべき。
そこでバイアスが少しはわかる。

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情報を流す側にも都合があり、何らかの利益や目的があるから流している。
利益に繋がるなら、嘘でも構わない。そういう人もいる……。

そういった事情を踏まえての「ゴシップ誌を見ている」です。

根も葉もない噂で金稼ぎをしているゴシップ誌みたいな存在を有難がっていると、どんどんダメになっていく……。

まぁ、程度の低い情報ソースをネタに文章を書くこともあるので、私も人のことを言えた義理じゃないけれどね。

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なぜ、「ゴシップ誌」を見るのかと言えば、おそらく下世話なんでしょう。
かわら版の頃から、その需要はあるし、きっと購買層も……。

組織や技術の話になると、それを理解するのに知識がいる。
小学生に中学生の勉強が難しいように、知識の段階を登っていかないと、理解が追いつかない。
だから、組織や技術の話を求める購買層は限られる。

ところが、下世話な話には知識レベルは不要なので、惚れた腫れただの、流行りだの、そういうのは客層が広い。
潜在的な顧客が多いと、ペイしやすい。
で、増える。

一方で、知識層向けのものはペイしづらく、需要も……。

そういう意味では、本屋に行けば「その国の知識レベル」がわかるかも。
いや、今はもうネットで買うか……。
というか、本を読む必要すらないかも。

欲しい情報は、動画や文章で瞬時に集められる可能性があるんで。

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「わからない」の怖いところは、行きつく先が「わかりやすさ」にあるところ。

「わかりやすさ」を求めた末に、「わかりやすさ」=「正解」に思ってしまう。
「わかりやすく間違っている」という可能性の排除。それが怖い。

何も相手を騙そうとして「わかりやすく間違っている」のではなく、無知な人間の知ったかぶりや調査不足で、そうなることも多々ある。

例を挙げれば、統計データを見ればわかるのに、「減っていないものを減っている」と言っている動画とか……。

www.jetro.go.jp

そういう動画のコメント欄に溢れているのは、「わかりやすい」とか「教師ですが、参考になります」とか、そういうの。
これが怖い。

何が怖いって、世の中には間違いが存在しないと思っていること。
誰かの過ちを目にしたときでも、それが過ちだ知識不足で気づけないこと……。

でもって、一度でも過ちを信じて、それが正解だと口にしてしまうと、後に引けずに間違い続けること。

なので、人は無口でいる方が賢く生きられるかもよ?

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あと、個人崇拝はキモい。

人は、知ってる範囲しか、知らない。
知らない範囲のリスクは、想定していない。

なのに、「この人は、間違ったことを言わない」みたいなカテゴライズをしている。
誰でも間違う可能性はあるだろうし、たまには真っ当なことを言うこともある。

物事の正否は個人に依存するのではなく、その出来事単体で考えるべきこと。

唐突に狂いだす人もいるんだから、物事の判断基準を個人に置くべきではない……と思う。


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一方で、別の視点で見ると「何が正しいのか わからない」の良さも見えてくる。

議論の「落としどころ」としては、最高だ。
そして、最低でもある。

「難しいから、間違っても仕方ないよね」というニュアンスを含めれば、不毛な議論を適当に終わらせられる。その可能性だけは否定しない。

とはいえ、「ごめん、間違った」という至高の一言には及ばない。
結局、自分のプライドとか関係なく、素直に謝れる人間は偉大だというオチになりました。

※ 文化圏によっては、謝ったら負けみたいなところもあるそうだけど。