世の中に変化をもたらすのは、奇人である。
大多数を占める凡人が変化をもたらすなら、落ち着かない世界のはず。
急速な変化を止めるべく、大半の人は凡人に育つ。
でも、時として変化が求められる事態になり、変化のノウハウが無い凡人は立ちつくし、変化を促せる人物の登場を待ち焦がれる。
一方で、変わりたくない凡人もいるわけで、その間で衝突が起こってしまう。
衝突は、凡人同士の間で起こり、凡人と奇人の間でも起こる。
仮に、好都合な変化を提供し、持ち上げられた奇人がいたとしても、不都合さが目立つか、誰かの嫉妬が勝れば、叩き落される。
持ち上げて、落とす。マスコミの得意パターン。
過去に叩いた政治家であっても、自分たちに必要なスポーツイベントが近づくと、また何も無かったかのように露出させるように。
ほら、スポーツ関連団体のトップに名前がある人なんかを。
* * *
根本的なところで、凡人は奇人と相いれない。
凡人が持つ“普通の感覚”では許容できない性格だから、奇人に見える行動ができるのだ。
凡人の感性のまま、奇人の行動はできない。
それを感性が違うからダメだと言い、行動だけは称賛する……。
感性だけならまだしも、凡人にすら成人君主はいないのに、よりにもよって奇人に品行方正さを求め、要求し、自分は何も提供しない。
そんな凡人とは、いったい何か?
そう、何もしない神である。
いつも見ていると言い、傍にいると言い、善い行いをせよと言い、一向に現れない存在。
そして、何もしない。
……ってなことを何となく思ったというメモ。
キッカケは、与謝野晶子のバナナ話を久しぶりに見たから。
小倉清三郎が主宰した性の研究団体「相対会」に入ろうとした鉄幹が、小倉氏に「あなたは、女にどんなことをしたことがありますか」と問われ、「晶子(与謝野晶子)の中にバナナを入れて、翌日それを取り出して食べました」と答えたものの、「そんなことは誰でもやっています」と言われたという内容。
あと、浮気した鉄幹に対し、与謝野晶子自ら性器に挿したバナナを食べさせたというエピソードも。
こういうのを抜きに、弟への「君死にたまふことなかれ」だけ取り上げられ、きれいな絵本(?)になっちゃう辺りに、「人間性の消去」と「偉人崇拝」みたいなものを感じ取れてしまい、何だろうなぁ~と思った感じ。
「マハトマ・ガンディー」の記事における「ブラフマチャリヤ」の解説