日々、自分の考えをメモしていて思うのは、命の捉え方が変わってきたなということ。
どんな対策をしたところも功を奏し、犠牲者が少ないのがベストですけどね。
各国の感染症対策に関して、そんなことを書いていたのも遠い昔。
そう思えるほど、「犠牲者」という言葉への反応が鈍くなっている気がします。
慣れてしまったんでしょうね、数字として知る「死」というものに。
病気による死者、戦闘による死者、生活苦による死者……。
それが自分に止めようもない場合、ダイレクトに受け止めていたらキツくなるだけ。
そう捉えると、自然なことかもしれません。
いちいち感傷に浸っていたら、前に進めないのだから……。
まぁ、そこまで共感性の高い人間じゃないですけどね、私は。
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数字として知る「死」で思い出したのは、トロッコ問題。
少数と多数、どちらを助けるのかというもの。
脱線させる系の回答を除けば、上記の二択。
その二択であっても、横たわっている人によって、回答は変わるかもしれません。
老人多数と若者一人のケースと、犯罪者多数と老人の一人のケース、不細工多数と美形一人のケース……。
自分だったら、どうする?
たぶん、どうもしませんね。
人の生き死に、関与したくないもの。
確実な正解が、そこにないのだとしたら……。
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自分に止めようもないとか書いたけど、「死」というのは生物としては「普通」なんですよね。
遺伝的に組み込まれた必須事項。
むしろ、現代の諸問題は「長生き」がもたらしているのでは?