「不倫がバレて謝罪」
「会食してて謝罪」
「不正して謝罪」
「炎上して謝罪」
「ご不快な想いをさせて謝罪」
もしかして、謝罪が大好きなの?
需要があるの?
直接的な被害を被ったわけでもないのに、謝罪を要求するのは いつもマスコミ……。
加害者と被害者がいるなら、その当事者間でやってりゃいいものを、「ご心配をおかけして」あるいは「お騒がせして」と、無関係の人にまで謝罪する。
というか、させる。
「別に心配してないし、私の周りじゃ誰も騒いでない」
特に芸能絡みでは、この感想に尽きる。
ハッキリ言って、どうでもいい……。
で、ひところ話題になったのは、感染しての謝罪。
感染チャレンジみたいな行動をしての感染なら、謝罪の必要性も感覚的には納得しやすい。
一方で、充分な配慮ある生活を送っている人の謝罪は……。
この謝罪至上主義の背景にあるのは、「人様に迷惑をかけない」の精神より、謝罪エンターテイメント・ショーが日常になったせいでは なかろうか?
そう、所詮はショーなので、言葉や見た感じが謝罪なら、心の底では謝罪じゃなくてもOK。
棒読みでも「ごめんね」と言えば、筋書き通りの報道になる。
「XX氏、△△の件で謝罪」
あぁ、そうか。
原稿を決め打ちしているので、それに合ったコメントが欲しいんだ。
でないと、書き直しになる……。
だから、謝罪以外は要らないってだけの話か。
「XX氏、△△の件で謝罪せず」
これだと、ツチノコ発見ならずみたいで締りが悪い。
それに、いかにも「謝罪するのがスタンダード」と、報道側が行動を誘導してるし、報道姿勢としてフェアじゃない。
公平に事実を伝える職分を逸脱し……とか書くと、反論されそうだけど。
なんていうかまぁ、少年犯罪があれば「心の闇」に言及するくらい、テンプレ文章しか書きたくないのかもね。
* * *
受け手としては、どうなんだろう?
もしかしたら、画面の中の誰かが自分に頭を下げているという錯覚が、つまらない自尊心を満たしてくれるのかもしれない。
そこに映っているのは、テレビ局が認めた「叩いていい玩具」であって、人権はない。
そんな生贄を提供することで、「市中引き回し」や「公開処刑」のような見世物的役割を果たし、低俗な人の鬱憤を晴らすのかも。
* * *
で、謝罪前と後で何が変わるのかといえば、基本的には変わらない。
「非を認めた」
その事実が大事だと言う人もいるかもしれないけど、同じことを繰り返すのであれば、何度 謝ろうが無駄な言葉を消費したに過ぎない。
「もう酒は飲まない。反省している」
酒で失敗したアル中の謝罪。
これを思い浮かべれば、実を伴わない謝罪の無意味さがわかるというもの。
悪いことがあった。
で、どうするのか。
つまるところ、大事なのは今後。
同じ過ちを繰り返さないための工夫、システムの構築、人の配置……。
そういった点こそ、重要なはず。
なのに、頭を下げる映像ばかりがピックアップされ、「あぁ、絵になるなぁ」で終わり。
大事な「改善点」は適当に流して終わり。
その改善具合の検証すらしない。
いや、できないのかもしれない。
なぜなら、伝える側も同じ過ちを繰り返していて、それが悪いと思っていないからだ。
何より、謝罪するような事態を望んでいるので、改善なんか望んじゃいない……。
……という闇が広がっていたら、どうなんだろうと思ったというメモです。
* * *
しかしまぁ、さっきまで平然としていたのに、不都合な出来事が発覚すると、急に態度を変えるのって何だろうね。
本当に反省しているなら、発覚する前から態度に出てるもんでしょうよ。
後悔という形で。
罪悪感なんて、微塵もないんだろうな。