メモ書き

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労働力を否定すると、殺されかねない

例えば、農作業のために水牛を飼ったとする。

で、その働かせぶりを見た誰かが「動物虐待だ」と騒ぎ、水牛を使用して作られた農作物の不買運動を起こす。

騒ぐ側は自分たちに正義があると信じているし、彼らに賛同して不買運動する人も同様。

結果、水牛を使用して作られた農作物は売れなくなり、そういった物は市場に出なくなる……。

これで、運動を起こした側にとっては、ハッピーエンドかもしれない。

だが、水牛は どうなるだろう?

労働力として購入し、飼っていたのを否定されれば、水牛の存在価値はなくなる。
エサ代もかかるので、早く肉にしようと思うだろう……。

だって、彼らにとっての正義は、生活することだから。
できるだけ損をせずに、多くの得を求めるのが、生活するということ。

それに、彼ら目線で物事を見れば、「水牛が原因で文句を言われた」=「原因を排除すれば、文句を言われない」という解釈に至りやすい。
何せ、労働力として水牛を見てきた人だもの。
他者の虐待思想を押し付けられたところで、すぐには理解できないだろう。

まして、短絡的な思考をする人なら、不愉快な情報を運んできた人や、それに関わる存在に憎悪が向き、「コイツのせいで」と……。


* * *

「労働力としての水牛」でも、これだけのモヤモヤした何かがあるのに、「労働力としての人間」だったら、そのモヤモヤは計り知れない。

どこかで強制労働の事実があれば、それにネガティブな感情を抱き、アクションを起こす気持ちはわかる。
一方で、その先に待つのが水牛と同じ運命であれば、どうするのか……。

強制労働をさせている時点で、相手はサイコパスである。
同じ論理で動いてはいない。
労働力を否定すると、救うべき対象を殺されかねないのだ。

もし、そうなったら、どんな言い訳をするのだろう?

「こんなことになるなんて、思わなかった」

そう言って、悲劇のヒロインでも演じるのか。
自分も思いを踏みにじられ、傷ついた被害者だと言うのか……。

* * *

……といったことを考えると、ポルタ湖の人買いから子どもたちを取り戻す人たちは、よくやっているなと感心する。

www.nhk.jp

まぁ、「人身売買 子どもたちの再出発」ってドキュメンタリー番組で知った範囲でしか知らないけど。