メモ書き

****

「沈黙は賛成」という理屈が嫌い

その言動は問題だと思っている。
でも、何も言わない。

そういった「沈黙」に対し、何も言わないのは言動への「賛成」だという主張が、嫌いだという話です。

どの辺が嫌なのかというと、問答無用なところでしょうか。
沈黙している側の理由や状況を考慮に入れていない。その配慮のなさ……。
すべてを巻き込もうとする同調圧力
この辺が嫌なポイント。

考えてもみてください。
「何かを言う余裕」が、すべての人にあるわけじゃない。
問題とされる言動を知る術がない人もいる。
なのに、何も言わなければ悪。
一方的じゃないですか……。

* * *

今日、一つ一つの動作が、すごくゆっくりな人を病院で見ました。
自分にも似た経験があるので、早く動けない理由は想像できます。
おそらく、自分でもどうしようもない……。
外に出て歩くのもやっとで、精神的にも余裕がない状態。

こういう人が、沈黙せずに声を上げるのは大変なこと。
ハッキリ言って、冗談じゃない。
何かを言ってしまったら、そのことで一日中悩み、生活に支障をきたすレベル。

そう書けば、配慮がないと書いた理由が少しは伝わるでしょうか。
まぁ、書いたところで極論だと言うかもしれませんが。

でも、「沈黙は賛成」を持ち出すと、まずは「知っていて当たり前」「知ったら行動」が余儀なくされる。
新しい情報を知る余裕もなく働く人もいれば、行動を起こすだけの時間の無い人もいる。中には、情報を知るための媒体を持っていない人も……。

そういう事情を軽視して、行動を起こさない者は……以下略。


* * *

そもそもですよ?

なんで、他人に自分の行動を制約されないといけないの?
自分の時間を、自分の意志で使う。
それすら脅かす発想が、「沈黙は賛成」のような“決めつけ”ではないのか……。
善意を装った思想統制の怖さは、望まぬ争いに人を巻き込むことにある。

こんなことを書いていると、『彼らが最初共産主義者を攻撃したとき』を持ち出される気がしたので、引用しておきます。

 

ナチスが最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった 私は共産主義者ではなかったから

社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、私は声をあげなかった 私は社会民主主義者ではなかったから

彼らが労働組合員たちを攻撃したとき、私は声をあげなかった 私は労働組合員ではなかったから

そして、彼らが私を攻撃したとき 私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった

彼らが最初共産主義者を攻撃したとき - Wikipedia

 いわゆる見て見ぬ振りに対する教訓。

だが、敢えて言わせてもらえば、声をあげなかったからこそ、順番が最後になったのだ。
最終的に、何が攻撃を止めた? それこそが真理。


確か、『アラビアのロレンス』という映画だったと思うが、命がけで助けた奴が問題を起こすシーンがある。
その結果、主人公は問題を起こした奴を処刑する羽目になるのだ。命がけで助けたのに。
あのシーンをどう解釈するかは人それぞれだし、「泣いて馬謖を斬る」ような意味合いもあるかもしれない。
ただ、私には「何をしようと、何をされようと、人は そんなに変わらない」という事実を見せつけられた気がした。

フィクションであればこそ、命がけで助けた相手は、やがて助けた側を助ける展開になる。
そうしないと、良いことすれば良い結果に繋がるというカタルシスは得られない。

命がけの努力は報われ、主人公が困ったときに……。

これは、やはりフィクションだ。
実際にそういう体験をした人もいるでしょう。
でも、私が体験してきたのは、変わらぬ関係性。
助けられる側は、助ける側に依存し、それを当たり前と捉え、助けが少ないと不満を言う……。
助けられる側、助ける側。この両者が入れ替わることなく、ある意味においては「助ける側が搾取され続ける関係」の継続でした。

一度でも声をあげれば、次も声をあげると思うでしょう。
そして、そこに依存する人が出てくる。

助けていた側が、いつの日か「助けて」と言っても、助けられた側は「それは私の役目じゃない」と平気で言う。

縁遠い話に聞こえるかもしれないけど、仕事ができる人に仕事が集まるのも同じ。
役に立たない高給取りのために、有能な若者が安月給で働くのも、先に書いた歪な依存関係と大差ない。

あぁ、なんだか書いている内容がズレてきた。


賛成は、積極的行動によって証明されるものである。
反対も、積極的行動によって証明されるものである。
沈黙は、沈黙でしかない。意見を持たないという証明である。
そして、関与したくないという自由意志である。

こんなことを書くだけのつもりだったのに……。

* * *

配慮すべき必要がある人について書いたけど、見方を変えると「ギリ健康くらいの人」が、一番大変だよなとも思う。

配慮されるわけでもなく、元気はつらつというわけでもないんですね。

あと、単純に嫌なんだよね。
見たくもない情報を見る必要性を説かれるのは。
「沈黙は賛成」って、何が問題か知るべきというニュアンスも含まれているわけで……。
それって、メディアの需要を喚起する側面もあるんだよね。
つまり、そう、奴らのマッチポンプみたいな……。

それでも、世の中の問題をすべて知り、すべて解決すべきって人はいるでしょう。
その「知る」という行為は、延々と増えていくだろうから、そのうち「知るべきこと」を学ぶだけで、40年もいるとかなるんじゃないかと……。
義務教育40年とかになったら、どうなるんだろうね。