ちょっと前に、「核のボタン(核のフットボール)」という単語を久しぶりに聞き、その存在について考えました。
端的に言えば、核兵器がある意義ってやつです。
よく言われているのは、核による抑止力。
撃った後に、撃ち返されたら困るので、使わない。
シンプルな理屈です。
核兵器を持っていなくても、所有国と仲良くなれば、「アイツをいじめたら、打ち込むぞ」と、その影響下に置かれることもあるでしょう。
一方で、不要論として真っ先に思い浮かぶのは、「犠牲者を見ろ」というもの。
こんなにも悲惨な状況を生み出す兵器は、所有すら許されない。
その先にある論理展開としては、兵器そのものの廃棄でしょうか。
ただ、廃棄した場合の国際情勢への影響、安全の担保については、言及されているのを見た記憶は無いような……。
* * *
こんな風に書くと、犠牲者への配慮が問われるかもしれない。
そう思うほど、核兵器という単語はセンシティブで、語られる際には“絶対悪”のポジションが求められている……気がします。
とはいえ、そういった配慮や感情で、存在の有無を決めていいのか。
核のボタンに関する意見を見て、思ったのです。
で、わかりやすい考え方としての「核兵器でしか倒せない敵」という仮定。
* * *
「核兵器でしか倒せない敵」がいたとします。
すると……
核廃絶に成功した世界では、その敵は倒せません。
核廃絶に失敗した世界では、その敵への対抗手段があります。
もしも、そんな状況になったのなら、成功した世界で語られる言葉は何か。
「こんなことになるなんて、思わなかった」
「その敵とも、わかりあえる」
「廃絶できた意義は変わらない。たとえ、その敵によって滅んでも」
結局のところ、どんな状況に陥るのかによって、その意義は大きく変わるもの。
ある国家が核兵器を放棄するとしたら、それは政権が代わるときか、世界が変わるときのどちらかしかない。
KCNAは「途中で核計画を放棄した国々で起きた悲劇的結末は、わが国には先見の明があることを証明するものだ」とした。
放棄した例を見ても、「どんな状況なのか」が大きい気がします。
* * *
より深く見ていけば、核を保有していなくても、核の傘に入っていなくても、撃たれていない国が山ほどある。
というか、撃たれたのは日本だけじゃないか、とか……。
そういう視点になるでしょう。
でも、わからないんですよね。結論的なものは。
「あなたは、相手が核を持っていたので、攻撃をやめましたか?」
という質問をしたところで、素直に答えるとは思えない。
何より、国や組織として そんな発表はしないでしょう。
つまり、抑止という効果は、証明しづらいもの。
故に、周りがああだこうだ言うことで、様々な仮定が成り立ってしまうのではないか……。
そんな話です。
この薬が、あの病気に効果がある。
投与したデータから見るに間違いない。
でも、その理屈は不明だから、仮説を立ててみた……。
まぁ、そんなところ。
こういう状況だからこそ、仮定を立てる意義みたいなものを感じた……のかも。
* * *
抑止力は国同士の話であって、土地を持たないテロリストの手に渡ったら、どうするんだとか……。
そういうポイントもあるでしょう。
まぁ、テロリストを考える場合は、その資金源を辿る必要が出て来たり、成り立ちや背後関係という“条件”が大きくなるような気も……。
そうなると、核兵器の問題以前に、別の問題になってくるような?
* * *
何というか、どんな仮定をベースに考えるかで、物事の捉え方も変化するのではないか。
そう思ったってだけかもしれません。
あと、核廃絶に向けた別案として、上位互換兵器的なものを生み出せば、核兵器自体の廃絶は容易になるでしょう。
より扱いやすく、より強力な兵器。
そんなものが誕生すれば、核を持つ意義は薄れ、そっちにとって代われるでしょう。
「破壊兵器の存在」という視点で見れば状況悪化ですが、核廃絶にはなる……。
そういうアレな話。
銃の登場で刀の時代が終わったような展開です。
いやまぁ、美術品として刀は残ってますけどね。
予防薬が完璧だから、治療薬は要らない。
そうならないように、一度でも生み出したものは、少量でも残り続けるのかもしれません。
* * *
【メモ】
オッカムの剃刀
「ある事柄を説明するためには、必要以上に多くを仮定するべきでない」とする指針。