「子どもには、無限の可能性がある」
……とは思ってないけど、常識みたいに使われてるのを耳にします。
「可能性」に対する個人的な見解は、下記リンク先にて。気が向いたら、どうぞ。
この「子どもの可能性」という言葉をセールスマンが使うのと、その子の親が使うのでは、まったく意味合いが異なってきます。
親「子どもには、無限の可能性がある。だから、習い事をさせよう」
セールスマン「子どもには、無限の可能性がある。だから、こちらの教材を……。そして、習い事は弊社の……」
子ども「うわぁ~、宿題が増やされた」
この場合、追求されている可能性は、何なんだろう?
仮に習い事が「ピアノ」だったとして、それを習わせる理由は何だろう?
ハッキリ言って、音楽は生きていくうえで不可欠ではない。
「ピアノを習う」という投資行為に対し、将来的なリターンを望むのなら、どんなリターンを求めるというのだろう?
音大に進んで、その道のプロに?
であれば、海外留学させて、名が売れるまで援助できるのか?
先々のこと、無限でない親の懐事情を鑑みれば、割に合わない投資に思えてくる……。
「でも、ピアノを習った子の方が稼ぐって……」
経済的に裕福だから習えた。経済的に裕福だから、お金持ちにもコネがあった。
そんなピケティの「R(資本収益率)>G(経済成長率)」を思い出すような理屈が、事実背景としてあるんでしょう。
資本主義では、多くの資本を持つ者が勝者。スタートラインからして違う……。
ただまぁ、最近はYouTubeでピアノを弾き、人気を得ている人もいるので、「稼ぎ方の可能性」は広がっているかもしれません。
それは、以前なら人目に触れることがなかった特技にも言えること。
人気者には、求められるべき“何らかのレアリティ”が存在する。
これから先、子に何かを期待して投資するなら、そんなレアリティの獲得に繋がるか否か。それが判断基準になる気がしないでもないですね。
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習い事の嫌なところは、存在意義が時代によって変化することです。
例えば、そろばん。
昔は、計算に使うので、実用的な存在でした。
でも、今となっては、計算に使ってる人を見ることはないでしょう。
一方で、頭の働きがどうのとか、暗算がどうのと、別の価値が見出されました。
そりゃ、そろばんを製造しているところは死活問題なので、習い事としての地位を確保したいでしょう。だから、「別の価値」は大事。
その辺の手法としては、自社製品の売り上げを後押しする研究論文を書かせる代わりに、研究費用を投じるのに似ていなくもない。
この「そろばん」の後に、「電卓」が出てきます。
習い事としてのイメージはないかもしれませんが、資格があります。
簿記の学校で取得するようですが、これも資格ビジネスのひとつかも……。
その頂点の称号は「名人」なので、名人を名乗りたい人は目指してみるのも一興。
「電卓」の後には、「表計算ソフト」が出てきます。
ようやく現代における実用レベルに到達しました。
この表計算ソフトにも、資格があります。
その資格は「Microsoft Office Specialist」で「MOS」と呼ばれるもの。
私が受けたときは、「MOUS」でした。
別に、取る必要のない資格です。何となく、取っただけ……。
「Word」や「Excel」の試験なので、ソフトのバージョンが上がれば、過去の資格の価値は下がるでしょう。
こんな振り返りをして何が言いたいのかと言うと、可能性がどうのという以前に、「誰かの飯のタネ」としての「習い事」なんだよということ。