メモ書き

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「それはこっちのセリフだ」が嫌い

「それはこっちのセリフだ」というセリフが嫌いです。

ずっと、なんか嫌だったんですけど、どうして嫌なのか、考えてみることにしました。

まず、フィクションで「セリフ」という単語が出てくること自体が嫌みたいです、私は。

なんて言えばいいんでしょうね、メタ的に受け取っちゃうところが、あるって言えばいいんですかね……。

物語の世界に浸っているときに、登場人物が「俺たちは、創作されたキャラだ」と劇中で叫んじゃうような興ざめ感があります。


登場人物は、セリフを喋っているだけ。
その事実を「セリフ」という単語は突きつけてくる。せっかく物語に浸っているのに、「作り話ですよ」と言われているような感覚。それは百も承知なのに、わざわざ言われる不快感。
だから、フィクションで聞きたくない部類の言葉なんです。
もちろん、劇中劇内のセリフにかかるような使用法なら、その範疇では ありません。

次に、セリフとしてチープさがあること。
このセリフ、誰でも言えてしまうので、キャラの深みに繋がらないんです。

どんな経験をしてきた人も、どんなシチュエーションでも、割と言えてしまう。
シリアスでもギャグでも、ところ構わず使えるし、使用者も制限されづらい。

賢い人には賢い物言いがあり、阿呆には阿呆らしい物言いがある。
同じAという事実を伝えるにしても、その伝え方に個性はあってしかるべき。

人物を描くなら、語尾に「~じゃ」をつければ老人になると思ってはいけない。
80年生きた人間の考えと、10歳の子どもでは考え方が違う。
なのに、言う内容ではなく、語尾の違いで表現してしまう。

子ども「コマンドは、上上下下右左右左BAだよ」
老人「コマンドは、上上下下右左右左BAじゃぞ」

仮に、上のような説明台詞であっても、老人なら「いいか、よく聞け。コマンドというのがあってだな、俺の若いころは……」と、回りくどかったりして、そこに表現があるんじゃないか。
そういう話。

そもそも、「それはこっちのセリフだ」には、一人称すらない。
自分は「こっち」で表現されるので、「俺」なのか「僕」なのか「私」なのかすら不明。

せめて、一人称の違いでもあれば、そこにキャラ性を見出すこともできるのに……。

これじゃ まるで、コピペに最適化されたセリフじゃないか。こっちとら、何か「新しい表現」を見たいのに。

そう思えてしまうので、「それはこっちのセリフだ」が嫌いです。