メモ書き

****

「環境少女」に対する不快感の正体

「環境少女」と呼ばれている子の存在を知ったのは、数日前のニュースだった。

国連での「よくもそんなことを」という発言が見出しになり、その近くには怒ってる顔の写真があった。
第一印象は「嫌な感じだな」だった。

とはいえ、ニュースの一部分だけを見ても、全体像は見えてこない。
前後の文脈を知らないと、言葉のニュアンスを理解できなように、“嫌な感じに見える部分だけを切り取り、情報操作している”可能性を考えてみた。

つまり、他の記事も見たということ。
「絶対に許さない」とか、トランプを睨んだとか、さっきのと大差ない情報が入ってきた。金太郎飴を切っているように。

他の人の反応を見ると、否定的な意見、障害に対する意見、親による洗脳を懸念する声、子供の政治利用を非難する声、CO2排出量に関する別の見解があった。
あの若さで国連でスピーチ、同じ障害を持っている、という側面だけを見て、称賛する声もあった。

いつものことだが、「自分と違う意見は攻撃」と見なし、相手を罵り合う光景も広がっていた。

そのうち、共同通信社の「FOXテレビ」に関するニュースが入ってきた。
そこで気になったのは、次の一文。

スウェーデンの「環境少女」グレタ・トゥンベリさん(16)に国際社会で称賛の声が広がる中、地球温暖化に懐疑的な米国の右派メディアや専門家は「環境ヒステリー」などと激しい攻撃を続けている。』
引用元:

this.kiji.is

 

米国の右派メディア、とある。
一部メディアでよさそうなのに「右派」と書いてるし、見出しにもしている。

ということは、このニュースを発信する側は「右派」じゃないし、このニュースに関しては政治的スタンスが重要なのだろう。
わざわざ「右派」と表現するくらいだもの。

ここで、ふと最初の不快感を振り返ってみた。
自分は、何が嫌だったんだろうと。

「政治」がよぎると、「ナイラ証言」が脳裏をよぎる。
ついでに、「環境」+「政治」で、ゴア元アメリカ合衆国副大統領が出てる「不都合な真実」の映像も蘇る。
あれ、冒頭のポエムが、キツかった……。
でも、いったん そういうのは置いておき、自分の感情の動きを観察する。

単純に、大人という奴は、子供が生意気なことを言うと、面白くないものである。
今回も、そんな感じかと一応は考えたが、どうも違うようだ。

もし、彼女の国、人種、年齢、性別が違っていたら。
そう仮定し、様々なケースを想定したら、自分の見え方は違ってきた。
端的に言えば、出身国のGDP的な数値に左右される気がしたのだ。

ただ、使用した言葉自体に対する嫌悪感はある。
翻訳前の言葉を見たわけではないので、正確なニュアンスは掴めないが、「そんな言い方をしなくても」というのはある。

あれでは、同意したい人も、嫌悪感から離れていくのではないか。
坊主憎けりゃ袈裟まで憎い、である。
その辺、長年にわたって環境問題に取り組んできた人は、どう感じたのか気になるところ。

また、もしも彼女がターニングポイントとなり、環境に対する意識の変化が起こったとして、「今まで取り組んできた連中は、何をしていたんだ」となれば、どんな気分だろう。
そんなことも考えた。
逆に、敢えて そっち方向で突いてみると、何か出てきそうな気もする。

まぁ、子供のピュア性が必要だったと言われて終わる気もするけれど。

『筆者たち大人が彼女の主張を真似するのは難しい。その主張はグレタさんというピュアな主体の実存的な叫びであるから人々の心に届くのだ。手垢のついた大人が似たようなことを言っても、人々は「またか」と言って顔をそむけるか、反発してくるだけだろう。』
引用元:

news.yahoo.co.jp

上の引用元では、怒らずにスピーチしている彼女が見られる。
たぶん、こんな感じなら印象も大きく変わったんだろうけど、ニュースの扱いも違ったんだろうね。


あと、経済成長云々のくだりを聞いて思ったのは、この手の問題を訴える人の多くは、専門としている部門以外は、どうでもいいと思っている感じが強いということ。
極端な言い方をすれば、経済は捨てていいみたいな発想を持っていそうで怖い。

何だろう、「健康の為なら死ねる」みたいな矛盾が、そこにあるのではないだろうか。
リーマンショック後に生活が崩壊した人なんか見ると、環境よりも差し迫った目の前の危機を感じることも……。

まぁ、知らない誰かの生活が崩壊しても、自分の生活が盤石なら、「大きな目標を達成した」と喜ぶのかもしれないけど。

自分の気持ちを整理したくて書いたけど、あまり整理できている気がしない。
たぶん、こういうのは話題にしたら負けなのだ。その意味で、これを書いてる時点で負けな気がしてくる。
勝ち負けじゃないという人もいるだろうけど、個人的にはマイナス感情の広がり的に「負け」なのだ。

そして、生意気な子供に腹を立てる大人の心理には、何の責任も取らなくていい子供への羨望がある気がした。