メモ書き

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「DEVILMAN crybaby」の感想|ドラクエが、FFにされた感じ

Netflixに登録したので、ここでしか観れないものを。
そう思って、一時期 広告がアレだと言われていた「DEVILMAN crybaby」を視聴。

前にアニメ化されたものは見ていませんが、おおまかな内容は知っていました。
原作の漫画も読んだはずなんですが、あまり覚えていません……。

ヒロインの最後がトラウマという人が多い中、この忘れっぷりは酷いですね。

でも、忘れていたから、楽しめたところもある気がします。
あとで他の人の感想を見て、そう感じました。
「原作では云々」「デーモン族とは云々」みたいな視点を持ってると、「これは違う」と思えるようなので……。

彼らとしては、『ドラクエが、FFにでもされた感覚』なんでしょうかね。
よくわかりませんけど。


個人的には、彼らほどの思い入れもないので、ぼんやりとした視聴でした。
人物が溶けていく感じの動きに、気分的に酔っていた感じの“ぼんやり具合”です。

ストーリーを楽しむというより、「動き」と「音」の刺激を楽しむような……。
なんか、刺激と書くと、ドラッグみたいですね。
でも、サバトなんかは、まさにそれ。

なぜかはわかりませんが、「パーフェクトブルー」を初めて見たときのことを思い出しました。
監督は湯浅政明さんなので、「四畳半神話大系」や「ピンポン」を連想するのが自然なんでしょうけど。

その「動き」と「音」の刺激として、印象に残ってるのは、わが子を撃とうとする父親の葛藤。
色んな感情が入り混じった顔。撃とうとしてはやめるの繰り返し。
辛いシーンなんですが、刺激として優秀でした。私には。

例のトラウマシーンは、いつか来ると思っていたので、「あぁ、こんな感じにしたんだ」で終了。

時代の変化もあってか、彼女はSNSを使うキャラだったので、ネット上で配信される悲惨な最期という可能性も、終わった後に考えてみましたが、それだと絵的に弱いですね。
“切断されて串刺し”というショッキングさを生で見る。
その刺激には勝てないでしょう、主人公目線でのインパクトで言えば。
それに、でないと「人間ども!」と言って、スムーズな流れで怒りをぶつけられないし。


逆に、刺激として、物足りなかった箇所もあります。

人間の心を持った悪魔
悪魔のような人間

雑な言い方をすれば、上記のような相反する存在性と言いますか、テーマ性を感じるんですが、思っていたほど それは響きませんでした。それが物足りない箇所です。

二元論的に、悪が悪らしいとき、善は躊躇いもなく善を行える。
だとすれば、悪が悪らしくないとき、善は悪にどう対処するのか。そういうテーマも派生しますが、愛を知る悪魔が出てきても、その前のやり取りのインパクトから、ただのセックス依存症にしか見えない。
なもんで、そのテーマ性という刺激が感じにくい結果に。

ただ、それも今となっては、どうなのかなぁ~と。
あまりテーマ性を強められても、説教されている感じのクドさになったら厳しい。

ぼんやりと「動き」と「音」の刺激を楽しむレベルの人間にとっては、あれで ちょうどよかった気もしないではないです。
強いテーマ性の主張は、あの時代だから許容された感じもあるのかなぁ~と。
原作の不良が そのまま出てきたら、今じゃドン引くように……。

そういう意味では、ドラクエをFFにするくらいは、まだマシみたいな?
うまく言えないですけど、ラーメンをチョコレートにされるくらいの変化球じゃないなら、時代に合ったアレンジと言えるのかもしれません。

娯楽作品は、自分をハッピーにしてくれる存在で、そこからの学びとか、気づきは要らない。
そういう傾向が強まるなら、テーマ性の主張なんて、ウザがられそうなもの。難しいですね。

なんてことを書いていたら、「楽園追放」はバランスが良かったなと思いました。
こちらも、かなり内容を忘れてきていますが……

心を持った機械
心がない生物

みたいな要素が、ありましたよね?

個人的には、SF作品における“新たな技術による恩恵&それが原因で起こる問題”。
そして、そのことで気づかされる人間の本質みたいなのが好みなんですけど、それを直球でやられたら、私でも“古い”と思ってしまうし、それだけで構成されても退屈……。
そういう意味でのバランスの良さがあったかなと。

少しそれますが、そういった作品を楽しむうえで、心地よい刺激を阻害する思考があります。
なんて言えばいいんでしょう……
PSYCHO-PASS」の犯罪係数に対し、「そんな変わりやすい数値を指標にしていいのか?」みたいな突っ込み。
約束のネバーランド」を見る前に、「ワンオペ育児」の記事を見て、「ママ、大変ね」と視点を変えること。

「気づかなければ、楽しめたものを」と後で思っても遅い。

だから、楽しむために、私の思考停止フィルターが作動し、ぼんやりと見ることが増えました。

それでも、似たような展開に対する耐性は、どうにもならない。

デスマスク付きの悪魔との闘いで、攻撃しづらい相手に苦悶する主人公を見ても、次のようなパターンが脳内にセットされてしまう……。

1.別の人が解決する
2.葛藤の末に倒す

楽しみたいのに、予想されるパターンが勝手にセットされるので、「はいはい、どうせ倒すんでしょ。早くやりなよ」になってしまい、繰り返される母の言葉に飽きてしまう……。
困ったものです。

同じものを見せられている感覚が、そうさせるのでしょうか。
以下のようなケースになると、どこかで見た気になってしまい、視聴をやめようという動作に繋がることも。

友人関係を形成する際に出てくる「おいしいクレープ屋さんがあるの」というセリフ。前置きで「新しく駅前に」とか、都合よすぎる開店タイミングは何?
自分にとって不利な状況に置かれた後での「フッ、面白い」という敵のセリフ。「やられますフラグ」を立てるなよ。
おにぎりみたいな食品を一口 食って出る「あっ、おいしい」のセリフ。そこまで、違いがわかるか? おにぎりで。

こういうので阻害されないためにも、画面の隅にでも“新しい刺激”があってほしいと願うのです。
と、ここまで書いてきた後に言うのもなんですが、美味しいものを最初に食べたときの感動は、二回目や三回目では味わえないもの。
いつも変わらない味だと思えている店も、実は少しずつ改善しているから、飽きが来ないという話もあります。

何が言いたいのかと言いますと、「原作サイコー」の背景には、“美味しいものを最初に食べたときの感動”があり、映像化された それは二回目や三回目の味わいになってしまう。
それ故に、最初の味わいを求めていると、永遠に満足できる二回目や三回目は来ない。
「原作は超えられない」の理由は、ここにあるんじゃないか。みたいな話です。

人には慣れがある。楽しみには、変化が必要。

もしも、ドラクエがFFになったら、FFとして楽しむしかない。