メモ書き

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榊原良子さんのブログを読んで

ameblo.jp

昨日、榊原良子さんがブログをやられているのを知りました。

パトレイバーの劇場版2作目のことを書かれていて、それが話題になっていたのを見て知ったという流れ。

その劇場版での演技に関して、監督と意見の相違があったのは、何かで見て知っていましたが、具体的にどのシーンなのかは知らなかったので、「あぁ、あそこか」と読んで思った次第です。

読んだ感想を言えば、「なるほど」というもの。
確かに、前後のつながりを考えると、あそこで“毅然とした態度”という指示は、どういう意図があったのか首をひねるところ。
手を絡めた後の表情は、「どうして、こんなことをしたの?」と言いたげに見えた……気がします。

まぁ、最初に見たのが遥か昔の学生時代なので、今となっては記憶も曖昧。
それ以前に、映画を見ていない人にとっては、「なんのこっちゃ?」でしょうけど。

だからといって、わかるように説明するのは困難です。
何せ、旧ビデオシリーズ、劇場版、TVシリーズ、新ビデオシリーズと、なが~く展開した後の映画なので、その繋がりをあれこれ言うのは難しい。
「見て」としか言いようがない。

そのうえで、時系列として繋がってるけど、そこだけ切り取られた時間軸であり、作品としての方向性も独特なのが2作目。
そう言えちゃうから、解説するのが厄介。

ただ、旧ビデオシリーズの最後2話。
あれが下敷きになっていて、そういうことが“やりたかった”と私は思っています。
押井守監督は。

何というか、自分が描きたいものをパトレイバーという舞台を利用して作った、そんな感じ。
うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』みたいに。

* * *

この映画の感想を人に聞くと、「パトレイバーを終わらせてしまった作品」とする人もいれば、そのあとに作られた「攻殻機動隊」への布石と捉える人もいて、なかなかに興味深いです。
主に、前者はTV版パトレイバーのファンで、後者は押井監督のファンなイメージ。

私は、どうなんでしょうね。
映画として好きですし、パトレイバーだとも思っていますが、どうにも人と感性がズレているんで……。

映画館で見たときなんて、他の人が笑ってるシーンで、クスリともしていなかったし。
太田が“貴重な備品”にトドメを刺した時も「あぁ、もったいない」だったし、ビデオを再生中に顔を寄せ合ってるときも「顔、近いよ」だったし……。

……。

劇場版1作目を篠原遊馬が主人公、TV版を泉野明が主人公と捉えると、劇場版2作目は後藤喜一
しかし、私の中で最大の存在感を感じていたのは、「背景美術」かもしれません。

冒頭の白い空。
あのインパクトは、結構なものでした。
あんな描き方があるんだって……。

次に思い出すのは、宗教的な像。作品的に言うなら、何もしない神。
破壊された橋の数々。設定資料集で言われていたのは、断裂した人間関係。
船上から見た工場群。
雪が積もった戦車。

シーンとしては、空に浮かぶ飛行船。
非常事態でも変わらぬ通勤ラッシュ。
自衛隊が警備する街で普段通りに暮らす人々。

特に後ろ2つは、強制力を伴わなかった非常事態宣言があった後なら、感じ方も異なるでしょう。
日本には、戒厳令が無い。
緊急事態が起こったところで、法的に人の行動を制限することは叶わない。
なもんで、橋を爆破する存在が近くに潜伏していようが、毒ガスを積んだ飛行船が飛んでいようが、国会議事堂前に戦車が配備されようが、人々は日常を送り続ける……。
自衛隊と記念写真なんか、撮っちゃうくらいの日常を。

……と、そういう描写がある話なんですが、当時の私は理解が足りていないので、どこまで把握していたかは不明。
その描写のリアリティや表現に、ただ魅せられていただけ。その程度の視聴者でした。今もだけど。

それが、ブログを読んだことで色んな事が蘇り、学生時代とは違った感想が生まれたので、「なんか、新鮮だな」と思ったというだけのメモです。

今思うと、あの映画の公開の後にオウムの事件が起こり、未来を予見していたような感覚すら覚えましたが、制作側からすれば学生運動日本赤軍の事件の延長に、それはあったのかも。そう思えてきます。
TV版に出てくる過激な連中を思うに。

* * *

ブログでは、映画では描かれていないシーンも想像されていまして、そこまでイメージしての演技だったのだと、興味深く読ませていただきました。

“いつもの彼女”を崩さずに帰宅し、自室に入って仕事に関することを……以下略。
そこで号泣、と。

それを読んで、素人ながら思ったわけです。
もしも、こういうシーンが必要になったとしても、泣き声は入れたくないなと。
パソコンのキーボードを打つ手が遅くなり、涙がこぼれるくらいの描写の後は、雨が降る家の外を画面に出したくなります。
泣き声の代わりに、雨の音に演技をしてもらう感じで……。
そのくらい、泣いている南雲しのぶは見たくない。

何でしょうね。
劇場版2作目の彼女は、「女」が出過ぎていて好きじゃないという女性の感想を見たことがありますが、あのキャラクターに求めているのは、美女の皮を被った仕事ができる男なのかも……。

そう思ってしまうと、ブログであった“しなやかさ”の表現の積み上げが、悲しくなりますね。

* * *

“しなやかさ”という単語で思い出すのは、「そうね」というセリフです。
いろんなところで出てきたと思いますし、含まれたニュアンスも様々だったと思います。

「そうね、なんて言うかしらね、感動屋の隊員たちは……」みたいな感じのセリフがあったはず。
後藤さんに復讐する親子が出てくる話のときとかに。

その何度かある「そうね」の言い方。
ちょっと呆れた感じの「そうね」や、遠くに意識が向きそうな「そうね」に、シリアス調の「そうね」と、分類すると面白くないですが、そこには典型的な“仕事のできる女”的なイメージとしての硬さはなく、柳のようなしなりがあった気がしないでもない……。
とはいえ、傍にいるのが昼行灯。柳に風と受け流す上級者。しなりが違いすぎるので、目立つこともないでしょうけど。

好きなエピソードでは、二人の軽井沢があげられていて、個人的には納得。
単純に面白かったし。

確か、回転ベッドで回るシーンとかあったはず。
車のトラブルでは、某国の車は電気系統がどうのとぼやいていて、これは作り手の趣味が入っているだろうなと類推したものです。

でも、真っ先に思い出したのは、なぜか「栄光の97式改」ですね。
第1小隊に新しいレイバーが配備される話が来たけど、実際には企業の裏が垣間見えて……。
最終的に「整備班が整備してくれた機体を使いたい」という結論に至るまでの過程で、彼女の人となりを印象付けられた気がするんですよ。なので。

それと、整備班との関係性や距離感って、割とみんな違ってるので、興味深いんですよね。

* * *

大人になってからも、たまにパトレイバーのエピソードを思い出すことがあります。
特にクジラの回。

クジラが迷い込んだから、なんとか大きな海に戻そうとする話です。
マスコミが市民にインタビューし、「可哀そう、誰か何とかして」と言い、世論に押されてレイバー隊が動くという……。
無事、大きな海に戻って終わるじゃないところが、好きです。
戻ってくるんですよね、クジラ。
それで、世論も変わる。
勝手に戻ってくるクジラなんかに税金を使うなってね。
もはや、落語のオチのようですが、こんなもんですよね。作られた世論って。

これをどんな時に思い出すのかと言えば、人を襲う熊を猟友会が撃ったあと。
地元からの苦情はゼロ、他県からは山ほどってアレ。

* * *

なんか、思い出しついでにダラダラと長く書いてしまいましたが、榊原良子さんの演技で一番 心が揺り動かされたのは銀河英雄伝説なんですよね。

「魔術師還らず」のあと、泣き崩れるシーンです。
何というか、その感情が身体に流れ込んでくるようで、衝撃的でした。

次に衝撃的と言えば、BLUE SEEDだったかな?
演じているキャラが、ギャグっぽい挙動をするんですよ。

ハマーン・カーンや、クシャナとか、そっちのイメージが強かったので、「こんな演技をさせていいの?」くらいの驚きがあったような。
でも、本人的には演じているキャラとは大きく違うパーソナリティだとか……。

なんか、畏怖とか知性とか、そういったイメージが強いせいか、そういう役しか浮かばないですけどね。

まぁ、そのイメージのまま、後藤さんLOVE的なブログの文章を見ると、頭がバグりますけど。

逆に、コロナ禍での収録に際し、基礎疾患を持った身という難しい立場なのに、対策が不十分と言える収録環境で行う相手側の事情にも思いを馳せられる点には、今まで演じてこられたキャラとの共通点を見るようなところがありました。

「こんな環境で、やれるか」と言っていいような時でも、相手の理由を考えようとする……。
誰にでも事情はある。忘れがちなので、素直に感心しました。

そんな感想です。