メモ書き

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田舎の子どもは、買い物する機会が少ない

昔は、個人商店が今よりあった。

年金暮らしの婆さんがやっているような店で、利用するのは近所に住んでいる人だけ。
それでも続いていたのは、近所の人が買い支えていたからだ。
例え、賞味期限が切れたパンが普通でも、冷凍庫の底に10年前のアイスがあっても……。

買い支えたと書くと、妙な感じがする。
そこで買うしかない人が、今よりも多かったからだ。

田舎でも、車を運転したことがない人はいる。
当時、その傾向が強かったのは高齢の女性。
彼女らにとって、商品を仕入れられる近所の店は憩いの場であり、情報の発信場所でもあったような気がする。
そう、ここに集う人たちが、「どこそこの何とかさんは、どうで」と話すことで、プライベートな情報が拡散していたのだ。
その辺の路上で地域住民とエンカウントしても、同じようなことは発生する。しかし、路上と違って椅子がある分、長話も可能なのだ。
こうして、隣近所の人が何をしているのか。言うなれば、互いの家族の経歴を詳しく知り、誰と誰が血縁関係かという情報を知っているのが「常識」となっていく。


子どもにとっても、近所の店は重要な拠点だった。
お小遣いを使って買い物デビューするのは、この近所の店になる。
親が一緒のときに、初めて買い物をするケースは多いが、一人で何かを買うという意味で「買い物デビュー」を考えると、やはり近所の店だったはず。

大抵、そこで買うのは駄菓子。
串に刺さった酸イカとか、キャベツ太郎みたいなスナックとか、そんな感じ。

そのうち、近所の店に自販機が導入されると、一大ニュースとして伝えられる。主に、子どもたちの間で……。
さすがに、他の場所で自販機を見る機会は多いので、珍しいわけではない。
山奥に自販機があるのが、嬉しいのだ。……たぶん。

この個人商店の地位を危うくする存在が登場する。
移動販売車だ。

軽トラよりも少し大きなトラックの荷台がショップになっていて、そこに入ってものを買う。
お菓子も豊富で、パンの賞味期限も切れていない。
冷やさなくてはいけない商品はなかったが、品数や新しさの面で個人商店は太刀打ちできなかった。

しかし、最終的には来なくなった。
いつ来るのかもわからない存在の為に、子供は小遣いを取っておかない。
ポップなメロディを流してやってきたところで、お金のない子供が集まってくるだけ。そりゃ、来なくもなるし、売れたところで たかが知れている。

個人商店の危機は去ったように見えたが、スーパーの登場で一気に苦境に立たされる。
スーパー自体が珍しいわけではない。
だが、車がないと行けない場所にあるのと、自転車でも行けそうな場所にあるのでは、訳が違う。
3km~4kmほどの距離があっても、車を運転しない層が通うようになった。
そこには新鮮な食品があったし、選べるだけの種類もあった。

こうして、個人商店の時代は終わる。
多くの人がそう思った。

最初に潰れるのは、そのスーパーの向かいにある店だと、色んな人が予想していた。
あれから数十年、地元で今でも残っている個人商店は、その向かいにある店だけになっている。

なぜ?

スーパーに人が集まるから、そのついでに買うのかもしれない。スーパーが仕入れない何かを……。
店に入らないので、客が何を買っているのかは不明。
もしかしたら、学校あたりと太いパイプがあるのかもしれない。
気になるが、調べたくはない。なぜなら、その店の人は嫌な感じの人なのだ。

ふと、今の子どもたちの買い物について考えてみた。
近所に店がなくなると、子どもがお金を使う場所は、親の移動範囲に限られる。
親や祖父・祖母が車で連れていく場所、そこでしか使う機会がない。

ということは、常に買い物の際には、そばに大人がいることになる。
大人が近くにいない場所での買い物デビューは、遅くなるだろう。

そう考えたとき、会社の電話を取らない新入社員の話を思い出した。
固定電話が家に無いので、出方がわからない。そんな話だ。
携帯なら自分宛にかかってくるので、組織を代表して喋ることはない。固定電話を置かない家が増え、自分宛じゃない電話を取る機会が減り、社会人デビューして初めて それを体験する。
だから、取るハードルが上がってしまっている……。
そういう事情があるなら、次は買い物のハードルかもしれない。

いつの日か、「親がいないと買い物が不安」みたいな子の存在を取り上げ、面白おかしく報道する日が来るかもしれないが、そのときは事情を先に思い浮かべたい。

そう思って、田舎の買い物事情を振り返ってみた。


振り返り終え、「ダイアモンド博士の“ヒトの知恵”」という番組を思い起こす。
原始的な社会では、子供でも大人と交渉する。
「その荷物を運んだら、いくらくれるのか?」といった具合に……。
給与の交渉は、現代の子どもより早い。

何を前提とした社会にするかで、育つ能力も大きく異なる。
実のところ、教育の根本は「社会デザイン」なのではないか、そんな風に思った次第である。

「車を運転する」が田舎の前提になった。
それが嫌で出たのに、病気になって戻ってしまった。
しかも、その病気で処方される薬には、車の運転NGという注意書きがある。
これは、どういう巡り合わせなんだろうか。


* * * * *

都市部で暮らしていた頃、都会育ちの哲学青年に「前は、車なしで生活をしていたんだから、元に戻すことも検討するべきだ」と言われたことがある。

何をキッカケで言ったのかは知らないが、現実を知らないと好きなように言えるのは確かだ。
「前は、なかったから」というなら、「前は電気がなかったから」とも言えるし、究極的には「前は文明もなかったから」とも言える。
論拠として、無意味だ。

そのとき、どう切り返したのかは覚えていない。
ただ、彼が私の言を受けて「自分は哲学科だから、いろいろと考えるのが云々」と言っていた。

おそらく、適当に切り返しただけだろうと思い、そこで違う話題を振ってみたと記憶している。