マイノリティへの配慮が叫ばれるようになった。
叫ぶ側では、それをネタに他を陥れ、悦に浸りたい感じの過激派が目立つ。
一方で、そのことで長いこと苦しんできた人もいる。
正論と暴論がごちゃ混ぜになり、面倒くさい状態に……。
いろんな配慮は求められるものの、マジョリティが行う配慮に対して、配慮がされていないのでは ないだろうか。
今日まで「A」として扱っていいと認識していたのに、明日から「B」とするように伝達される。
急に変われるほど、人は柔軟ではない。
「長年、Aだったんだから、急に言われても、他のやり方なんて……」
「俺の若いころは、超Aだったんだ」
「私にとってBは、違うのよね。だから、Aが……」
なのに、変わった時点から、「B」として認識することに、完璧を求められる。
なかなかに、厳しい。
言うなれば、新社会人が社会人として100点を求めれるようなもの。
仕事を教えていないのに「役立たず」と言うような状態に、なってはいないだろうか。
そういう意味で、認識の変更があったのなら、誰もが ある意味「新社会人」なので、そんなタイトルにしている。
スケジューリングをするときは、ゴールから逆算して、段階を経ていく。
途中でチェックもする。
人の認識だけ、いきなりゴール地点に行けというのは、酷かもしれないという話。