メモ書き

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ニュースを見るとダメ人間になる

「誰が悪いことをした」「芸能人がどうなった」「あれを問題視すべきだ」

そういったニュースを知って、どうなるというのだろう。
嫌な気分になるだけではないのか。

時間を使って知るだけのメリットはあるのか。

そんなことを考えました。

ひとつの事件が新たな法に繋がることもあるでしょうが、多くの事件は知ったところで何のアクションにも繋がらないようなもの。
それに、予備知識が無いと内容を誤認してしまう可能性が高い情報も含まれます。

誰かが包丁で刺し殺されたとして、その凶器である包丁が生活する上で便利なことを知っていれば、道具に問題があるのではなく使用者の問題と言える。
でも、SNS殺人みたいな見出しを付けられると、SNSが何かわかっていない層は、SNSには何の利点もない危ないもの。取り締まるべきという発想になるのではないか。
そんな話。

ネットを利用したことがない年配の人が、ネット絡みのニュースを見て、本当に理解できているのだろうか。
そう思う感じでしょうか。
まぁ、池上彰氏のニュース解説が重宝されたのを見るに、理解しないままニュースを見聞きして、わかった気になっていたのかもしれませんね……。

 

人間、接していないものや、詳しくないものは、他の人の意見を鵜呑みにしがち。

モリー大学の神経科学・精神医学教授グレゴリー・バーンズ氏の2009年の研究によると、「人は、専門家として一目置く相手から助言されたり、方向性を提示されると、自ら思考することをやめてしまう」そうです。

この一目置く相手が新聞やテレビといったメディア自体である場合、非常に危ういですよね。
テレビでやってたからと、新聞に載っていたからと、問答無用で事実と認識する。

だから、大衆扇動のツールとして、何らかのバイアスがかかった情報も、そのまま受け取ってしまう。

スポンサー企業は持ち上げ、悪く書かない。そうじゃないところは叩く。
情報に誤りがあっても、訂正記事は小さく、目立たないように出す。
何かを称賛するよりも、インパクトが大きいスキャンダルが好き。

そういうとこには、目が行かない。

もちろん、どんな人が書いているのか、どこが作っているのかも気にしない。
番組を作っているのは制作会社なのに、「この局だから」という基準が絶対。
どういう思想の人が書いた記事なのか知ろうとせず、知るすべもない。
前後の文脈を無視し、作為的に選ばれた箇所が強調された情報なのに、その異様さに気付かない。

なもんで、おかしな人が、権力の監視が役割だとばかりに、先生に反抗してイキがる生徒のようなことをして、実際には誰かの足を引っ張ってるだけなのに、それを真に受けてしまう。

もはや、お金と時間を費やして、誰かのための宣伝を見ているようなもの。

それでも、「ニュースは大事だ」という。
大事じゃなくなったら、存在意義が薄れるので、メディアは声高に「大事だ」「問題だ」と叫ぶ。「問題を知らずにいて、いいのか」と問う。
そして、それも真に受ける。

詳しく知らないことも、自分で調べることなく、垂れ流される情報に洗脳される。考えることをやめ、ドラッグを求めるかのように情報を求める。
そうなると、「ニュースを見るほど、ダメ人間になる」のではないか。
なんて思えてしまう。

 


よく、報道の内容に対して、その筋の専門家が苦言を呈したり、当事者がネット上で反論したりします。
かつては、情報を発信するのは発信媒体がある組織に限られていたので、こういった個人の意見は出てきませんでした。
でも、今は違う。

すべての人が情報発信できるなら、誰もがメディアになれる。
戦争ジャーナリズムでさえ、「紛争地帯に行ってみた」という動画になるかもしれない。

こんな状況にあっては、Aというジャンルのニュースがあったとして、そのAの専門家でもない記者が、何らかのバイアスを加えた情報を流し、それを見聞きするのは知らないよりたちが悪いかもしれません。
「知らないよりは、知っている方がいい」という人もいるでしょうが、誤った情報を最初に受け取ると、それを後で否定するのは心理的にハードルが高くなります。

フェイクニュース」による誤った認識は、認知能力が高くなければ正すことが難しいというゲント大学の研究結果もあります。

そんなこんなで思ってしまった「ニュースを見るとダメ人間になる」でした。